夜の静けさが、部屋に染み渡る。
午後11時を少し回った頃。照明が一段階落とされ、リビングには柔らかな灯りが残っていた。
ヨルは風呂上がりのまま、まだ髪を乾かしきらずにソファへ座っていた。淡い色のルームウェアは彼女の白い肌に馴染み、肩口から少し落ちた布が風呂上がりの熱を逃がしているようだった。
目の前のテレビでは、深夜特有のゆるさと過激さを併せ持ったバラエティ番組が流れていた。
『街で聞いてみた!理想のバストサイズ、ホンネ調査!』
若い男性たちがインタビューを受け、それぞれ真剣に、時に笑いを交えながら、好きな“胸のサイズ”について語っている。
ヨルの目は、じっとその映像を見つめていた。
別に話の内容自体に興味があるわけではない。ただ、そこに映る“本音”とやらが妙に気になっただけだった。
一方、ダイニングの奥ではレオが明日の勤務に備えて、制服の点検と持ち物の準備をしていた。書類を丁寧に整えながら、いつものように静かに、慎重に。
響くのはその音と、テレビの音だけ。
部屋の中は静かだった。
だが、次の瞬間——
「ねえ、レオも……大きい方が好きなの?」
その言葉が空気を震わせた。
何の前触れもなく、あまりにも自然に、そして唐突に発せられた爆弾。
テレビの笑い声のBGMが、その場違いな静けさに拍車をかける。
レオの手が、書類の途中で止まる。
少しの沈黙のあと——彼はゆっくりとヨルの方へ顔を向けた。
真顔で、まるで天気の話をするかのようにこちらを見ている彼女の姿に、思わず息を呑む。
「……何言ってるんだ?」
そう返した声は、わずかに上擦る。
まるで「聞き間違いじゃないよな?」と自分に確認するかのように。
そして、まさか——という希望が砕かれたことを、次の彼女の一言が確定させる。
「みんなサイズ気になるんだって」
ここで指す"みんな"はテレビ番組に映ったインタビューを受ける男性達。どうやらその総評は大きい方が好き、というものだったらしい。
レオはヨルの言葉を受けて、わずかに眉を寄せた。
「……おまえな」
完全に不意を突かれたのか、書類をまとめる手を止めたまま、唇を結ぶ。
照れとも苛立ちともつかない、ただ妙に真面目な顔つきで、彼はヨルを見つめ返す。
「……なんで、そういう話を急に俺に振るんだ」
その声は低く、少しだけ声を潜めているのが分かる。
言葉にするのも恥ずかしい、だが無視できるほど軽い話ではない。深夜の、ふたりきりの空間だからこそ、空気の揺れがよく分かる。
レオの視線がちらりとテレビに流れる。
そこには「Gカップ!」「いやDの方がリアルでいい!」などと陽気に盛り上がるスタジオの男たち。
次の瞬間、彼はごく自然にリモコンを手に取り、番組をパチンと消した。
無言のまま、静寂だけが戻ってくる。
「……どんな答えが聞きたいんだよ」
レオの問いはあくまで真剣だったが、ほんの少しだけ、その瞳には困惑と戸惑いが混ざっていた。
「だって、レオも男の子でしょ」
好きな人の好みは知っておかないと、とでも言うような悪気のない表情。
「私、Fはあるよ」
服の襟部分を少し下げ、胸元を見せるように彼を見上げるヨル。
レオの目が一瞬、はっきりと見開かれた。
それは明らかに――予想外すぎる事態への、思考停止のサインだった。
「……っ、ヨル……」
噛みつくような低い声が喉から漏れる。
わずかに見せられたそのラインに、一瞬だけ目を奪われる。だが次の瞬間、彼はばっと視線を逸らし、ソファの背に肘をついて顔を伏せた。だが、その一瞬でしっかりと脳裏に焼きついてしまったのが自分でも分かる。
襟元を引き、まるで確信犯のようにこちらを見上げてくるその仕草。
それが無意識ではないことも、レオにははっきり伝わってしまっていた。
「おまえ、そういう冗談……」
言いかけて、拳を握る。
冗談で済ませるつもりがないのなら、どう返すのが正解かなんて分からない。
何より、今の一言とその動作で、内側の熱が少しずつ上がっている。
理性が押しつける制御の声と、彼女に対する本音の境界線が揺らいでいく。
「私の"全部"、もう何度も見てるのに」
必死に眼を逸らす彼のその姿がなんだか愛らしく感じて追い打ちをかける。
「まだそんな初心な反応してくれるんだ」
レオの肩がぴくりと揺れた。
それから、ゆっくりと顔を上げ―――ヨルと目が合った。
その瞳には、火が灯っていた。
赤く、熱く、けれどぎりぎりのところで燃え尽きずに踏みとどまる、理性の境界線。
「……おい」
喉の奥で鳴るような声。
そこに宿るのは、怒りではなく―――警告に近い熱。ソファにつけていた腕を引き、ゆっくりと身体を起こすと、レオはヨルに一歩、距離を詰める。
「俺をからかって、何がしたいんだ」
口調は穏やかだ。だが、声の温度が違う。
本気で彼女に心を傾け、彼女に触れたいと思っている男の熱が、滲み出ていた。
「私は。きみがどんな大きさが好きなのか、ただ訊ねただけだよ」
そうでしょ、と悪戯っ子のようにに眼を細める。
レオは、その一言に明らかに呼吸を詰まらせた。数秒だけ、じっとヨルの顔を見つめ―――そして、ふぅっと息を吐く。
「……おまえは、本当に……」
思わず、額に手を当てる。だが、その顔には呆れ以上に、どこか照れ隠しのような苦笑が浮かんでいた。
「……サイズなんか関係ない」
短いけれど真っすぐな声。
それは気取っても誤魔化してもいない、彼の本音だった。
「胸がどうとかじゃない。“ヨルだから”……いいんだよ」
そして、そっと目線をヨルから落とす。まるで、彼女のその小悪魔のような笑みに、逃げたら負けだとでも言わんばかりに。
「......それに、俺が好きなのは」
頬がうっすらと赤く染まり、苦く笑うレオ。
「触れた時に見せる、表情の方だ...」
思っても見なかったそんな彼の言葉に、思わず耳を赤くしたヨル。仕掛けていたはずの彼女が逆に掬われる。
「そう、なんだ...」
互いに視線を逸らした気まずい沈黙が流れた。
レオは不器用に少しだけ咳払いをして、少しの間を繋ぐ。俯き気味に、髪の奥で赤らんだ耳を隠そうとしている彼女の姿。その仕草にすら、胸の奥が締めつけられるような愛しさを感じる。
「……言っただろ」
少し低めの声でそう溢しながら、レオはそっと彼女の髪をかき上げるように手を伸ばし――指先で優しく耳に触れた。
「俺は、ヨルの全部が好きなんだ」
