あれから月日が経ち、冬が近づいてきた。
レオの仕事も落ち着き、今日はふたりで近所の公園を散歩している。枯葉が転がり歩く道からは乾いた季節の音がした。

「ねえ、レオ」

不器用に沢山の愛情を注いでくれる恋人を愛おしげに呼ぶ。

レオは、彼女の声にすぐ反応した。
少し前を歩いていた彼女に歩調を合わせ、すっと隣に並ぶ。冷たい風が吹くたび、彼のコートの裾が揺れて、手袋越しの大きな手が、そっとヨルの指先を探した。

「……なんだ?」

声は落ち着いているが、ヨルの呼びかけに込められた小さな機微を感じているのか、表情はどこか柔らかい。その視線には、いつも通りの不器用な優しさと、ほんの少しの不安が混じっていた。

「どうした」

手を繋いだまま、レオの手がそっとヨルの袖口に触れる。外の寒さに彼女が触れていないか、少しだけ厚手の生地を確認して安心したように息を吐いた。

「……ヨル」

ささやくような声。
なかなか口を開かない彼女を心配するかのように、そっと呼びかける。

「……きみは私のこと、好き?」
確かめるように小さく。家路に向かう足は止めないままに、彼を見上げながら尋ねたヨル。

レオは、数歩分遅れてその言葉を受け取った。
季節の風が、枯れ葉を巻き上げるようにふたりの間をすり抜けていく。けれど彼の歩幅は乱れず、手のぬくもりも途切れなかった。

「……なんだ、急に」

小さく笑うような声。
けれどその笑みには、からかいでも軽さでもなく──ただ、嬉しさと、少しだけ困ったような戸惑いが滲んでいた。

「好きに決まってる」

言葉は短い。でもその一言に込められたものは、時間にすれば何ヶ月分にもなる。
ヨルと過ごしてきた、日々すべての答えだった。照れくさそうに視線を逸らしつつ、足元の落ち葉を靴で避けるように蹴った。

そして、繋いだ手のぬくもりをもう片方の手で包み込む。それは、言葉で言い足りない分を補うように、そっと重ねられた仕草。

「……毎朝、目が覚めて。隣におまえが居るたびに、これが夢じゃなくて良かったって思うんだ」

その声には珍しく、ほんの少しだけ弱さが滲んでいた。

「おまえが、俺の隣にいてくれることが……一番、幸せだって思ってる」

目線は変えず、けれどしっかりと、ヨルの横顔を捉えながら。冬の冷たさよりもずっと熱を帯びたまなざしで、レオはそう言った。

「良かった。私もレオと一緒にいる時間が幸せ」

冷たい風の中、1人じゃないことの幸福を分かち合う。ただその時間が2人にとって一番だった。

「……帰ったら、さっき買ったシュークリームたべよう」

レオはヨルの言葉に、ふっと目尻を下げて笑った。
その笑みは穏やかで、どこか少年のように素朴だった。

「ああ、そうだな」

歩きながら、レオはヨルの手を引いて少し自分の方へ寄せた。並ぶ肩が触れ合うくらいの距離。彼女の髪に触れる風が、かすかに甘い匂いを運ぶ。

「でも……先に温かい紅茶を入れよう」

何気ない提案だったが、その声音はどこまでも優しかった。
ヨルの頬が風に赤らんだのか、それとも別の理由か。レオは言葉にせず、ただそっと見つめた。

「冷えてるだろ」

そう言って、小さく握ったヨルの手をもう一度確かめるように握り返す。その瞳にはわかりやすいほどの甘さが滲んでいた。
冬の寒さに包まれながら、それでもふたりの間には、ぬくもりしかなかった。



帰宅すると約束通りにシュークリームと温かい紅茶が用意される。

「優雅な休日だね。今日は素敵な一日だった」

今から始まるティータイムを前に素晴らしい休日を振り返るヨル。

レオは湯気の立つティーポットをテーブルの中央に置くと、カップをふたつ、ヨルの前にそっと並べた。
ミルクと砂糖の位置も、彼女の好みに合わせてきちんと整えてある。

「……俺もいい日だったと思う」

そう言ってから、レオは小さく笑う。
対面に座るヨルの横顔をひとつ見て、ほんの少しだけ言葉を継いだ。

「おまえが笑ってると、それだけで一日が"いい日"になる」

彼女が持ってきた例のシュークリームを箱から取り出すと、ふたりの間に置く。その動作はどこまでも丁寧だった。

「どっちにするんだ? クリームが詰まった方と、皮がサクサクな方。……好きな方選べ」

どちらを選ばれてもいいように、彼女が取りやすいよう整えるレオ。

ふたりの間を満たすのは、紅茶の香りと甘いクリームの匂い、そして互いの穏やかな気配。
冬の午後、窓の外では木々が揺れている。
けれどその寒さは、もう部屋の中には入ってこない。

「クリーム多い方がいい、な。」

少し遠慮がちにだが、確実にレオが自分の選択を尊重してくれると分かっているあざとさを含んで返事をした。

レオは一瞬表情を止めた。それから、ふっと苦笑を漏らす。まるで「やられた」とでも言うように。

「……わかったよ」

袋からクリームたっぷり詰まったの方を取り出して、ヨルの前に滑らせた。

「お嬢様のご所望通り」

皮肉を含めたような声。でもその実、声の奥には滲むような嬉しさがある。でも手元に残ったサクサクの方を見て、小さく笑うと自分の皿に置く。

「……俺はこっちが好きだから構わないよ」

その言葉に嘘はない。
ただ、ヨルが嬉しそうにしてくれるなら、それが一番だという思いが、レオの頬の緩みから透けて見える。

「……甘え上手になったな。最初の頃は、懐かない猫みたいだったのに」

レオの視線はやわらかくて、けれど決して甘ったるくはない。芯の強さを保ちながらも、そこにだけ許した熱を秘めている。

ふたりで、いただきますと声を揃えるとティータイムが始まった。

「……前の方が良かった?」

まだまだ豊かではないが、感情の無かった頃に比べ自分の意見や行動を示すことができるようになっているヨル。それはレオが親身になって大切に側にいた時間がもたらした変化。彼の返事をわかっていながら返す質問は、ヨルの成長がよく分かる言葉だった。

レオはスプーンを手にしたまま、ちょっとだけ眉を上げてヨルを見つめる。
その視線には呆れと、どこか誇らしげな色が混じっていた。

「今の方が好きだ」

紅茶をひとくち啜ると、香りを楽しむように目を細め、それからヨルにだけ見せる穏やかな目に戻る。

「言いたいことをちゃんと口にしてくれる今の方が、断然いい」

ふと動きを止めて、スプーンをテーブルに置く。
そして、手を伸ばしてヨルの手をそっと包み込む。手の甲を、親指でなぞるように。

「自分のことをちゃんと大事にしてくれる今の方が……俺は嬉しい」

いつもより少し低い声。ただ彼の中に積もる、確かな幸福が滲んでいる。
レオの大きくて温かい手が、ヨルの変化を誇りに思っていることを何よりも物語っていた。そして彼女と目が合うと、少し照れくさそうにシュークリームを口へと運んだ。

「……知ってるよ。これはレオが私にくれた変化。きみが嫌がるはずがない」

こんな風にする意地悪もきみから学んだ、とでも言わんばかりの表情。受け取ったシュークリームを満足そうに食べ始めるヨル。

レオは、ヨルの言葉にふっと笑う。
それはほんのわずかに唇の端が上がるだけの小さな笑みだが、甘く緩んだ表情でもあった。

「……ああ、よくわかってるな」

苦笑と共に、だがどこか安心しているようにも聞こえる。ヨルが見せる満足げな顔をじっと見つめるその視線には、愛おしさを噛み締めるような穏やかさがあった。

「美味しいか?」

ヨルが頷くのを見て、レオも静かに自分のシュークリームをひと口だけかじって、何気なくこう言った。

「……でも、おまえのほうが甘いと思うけどな」

唐突に落とした一言は、まるで無自覚に爆弾を投げるような破壊力。レオ本人は少しも顔を赤らめることなく、飄々とした顔のまま紅茶をすする。

「……なんてな」

その後に続く小さな冗談まじりの一言も、どこか嬉しそうだった。誰よりも硬派で生真面目な男が、たったひとりの前でだけ見せる柔らかさ。それが今、そこにあった。

そんな風に楽しく凄く午後のティータイム。
嬉しげに食べるヨルの口からクリームが一雫溢れ落ちた。外から帰り部屋着に着替えた彼女の胸元は空いており、まるでレオを誘うようにクリームはそこへ溶けていく。

「あ……ティッシュとってくれる?」

レオは紅茶を置いて、すぐに立ち上がる…と、思いきや。手を伸ばすよりも早く、彼の視線は落ちたクリームの行方を正確に追っていた。
そのまま一瞬の無言。けれど顔を背けるわけでも、視線を逸らすわけでもない。

「……わざとじゃ、ないよな?」

低く落ち着いた声。
けれどどこかで理性と本能の間を揺れている、そんな危うさを含んでいた。

ティッシュに手を伸ばしかけたが、すぐには渡さず、そのまま数秒、ヨルの胸元に落ちたクリームをじっと見つめる。

「拭いてやろうか?」

小さく笑うレオの指先が、そっとティッシュに触れる。けれど彼女に渡す素振りは見せない。代わりに、ゆっくりとしゃがんで目線を合わせ、ティッシュを持った手をわずかに持ち上げながら言った。

「それとも……俺に舐め取らせるか?」

口元には滅多に見せない悪戯っぽい笑み。
ふだん不器用で真面目な男の、極めて稀な“攻め”の瞬間。

けれど──

「……冗談だ。ほら」

最終的にはしっかり手渡すところが、彼らしい。けれどその頬は、確かにわずかに紅潮していた。

「今のはわざとじゃない。そんな勿体無いことしないよ」

ヨルは何事もなかったかのようにクリームを拭き取り、残りを食べ終えると満足げな表情を浮かべた。

「意地悪するならもっと、……大胆にする」

そういうと自分の席を立ちレオの前へと移動する。何をするのかと身構える間もなくヨルは向かい合う形でレオの膝にそっと跨った。

レオの背筋がわずかに強張る。
一瞬で染まった沈黙に、空気が濃くなる。

彼女の軽さと温もりが膝の上にしっかりと伝わる。
紅茶の香りに混じって、今はもうヨルの髪と肌の香りだけが支配していた。

「大胆って……」

低く絞り出すような声。
けれどヨルを押しのけることはない。むしろレオは、その腰にそっと手を添えた。
逃げないように、ではない。ただ、彼女が座っている場所が“安心できる場所”だと示すように。

彼の目は真っ直ぐにヨルを見ている。
普段なら絶対に見せない熱を、その奥に灯したまま。

「俺にこんなことして良いのか?」

柔らかなトーンの中にある、いつもと違う余裕と緊張。そのまま手のひらを少しだけ滑らせて、ヨルの背中を撫でるように触れた。

「……どうした。なにか言いたいことでも?」

からかい半分、本音半分。
けれど、彼の指先は優しくて、揺るがずに彼女を受け止めている。

まだ余裕そうな表情のレオの両腕を取ると、椅子の背もたれにかかったままの彼のネクタイを手に取った。

「いつもの仕返し」

そういうと彼が抵抗する間もなく、両腕をネクタイで縛り上げた。

「これで私に意地悪できない」

レオは一瞬目を見開いたが、すぐにふっと笑みを漏らした。
まるで「やられたな」と言いたげな、しかし楽しんでいるような表情。そのまま縛られた腕を軽く持ち上げ、ネクタイの感触を確かめるように指先を動かした。

「……手際がいいな」

声は低く、少しだけ喉の奥で笑っている。
けれどその瞳は真っ直ぐにヨルを捉えたまま、油断なくその動きを見つめている。

「こういうの、どこで覚えたんだ。……まさか、他のヤツ相手に試したことあるとかじゃないよな?」

言葉には嫉妬を隠すような冗談めいた調子。
だが、冗談に聞こえないほどの本気が滲む。

それでもレオは抵抗しない。
縛られたまま、ヨルの動きを目で追う。
まるで「好きにしていい」と無言で許可を与えるように、全てを受け入れる姿勢を崩さなかった。

「他の人に目を向ける余裕なんてない。第一レオがそれを許さないでしょ」

ヨルは膝に跨ったまま軽く触れるだけのキスをして怪しげに笑った

レオはそのキスを受けたあと、しばしの沈黙を保ったままヨルの瞳を見つめ返す。
その目には確かな熱と、どこか安堵に似た感情が浮かんでいた。

「……ああ、許さない。絶対にな」

縛られた両腕を微かに動かし、手が自由であればその頬を優しく撫でていただろう仕草を空気に残す。
だがそれができないと悟ると、レオは代わりに言葉で触れるように、低く穏やかに続ける。

「他の男に見せたくない。おまえの笑い方も、こうして俺の上にいる姿も。全部、俺だけが見てていいものだろ」

それは命令ではなく、願いにも似た告白。

「……それで?」

少しだけ声の調子が変わる。
くすっと喉の奥で笑いながら、レオは首を傾けた。

「満足か?それとも……まだ、続きがあるのか?」

静かに、挑発のように呟く。
縛られてなお、その瞳は強く、温かい。
全てを委ねながらも、心の主導権はまだレオの手の中にあるようだった。

挑むような瞳と、揺るがない静けさ。
彼の中の炎は、今も確かに燃えていた。

「まだまだ余裕みたいだね」

そう言うと首元に唇を沿わせ、何度も跡を残す。赤く可愛い花弁をいくつも残して、初めて夜を過ごした日を振り返る。

「あの日レオが沢山残した跡、なかなか消えなくて大変だった」

指先で自分の残した跡をなぞり、細めた目で不敵に笑う。

「これから冬で良かったね」

レオの喉がわずかに上下する。
肌に触れる柔らかな唇の感触、熱を持って刻まれていく痕。それが何より雄弁に語る“仕返し”に、レオは深く息を吐いた。

「……おまえは、まったく」

首元に残された熱の感触を振り返るように目を閉じ、低く笑う。
縛られた手はまだ解かれず、されるがままにされている自分に苦笑しながらも、彼の目は真剣だった。

「俺はおまえが残した跡を隠したりしないから」

言葉を区切り、ゆっくりと彼女を見上げる。
その声には、今にも噛みつきそうな静かな熱がこもっていた。

「どんな季節だって関係ない」

言葉の重さと瞳の真剣さが重なって、空気に微かな緊張が走る。
だが、彼の声はそのまま少し柔らかくなる。

「……消えないならそれでいい。おまえが俺を選んで、俺にそれを許してくれた証なんだから」

縛られた手が、そっと小さく動く。
触れられないもどかしさが、逆に言葉の一つ一つに重みを与えていた。

「……だからもう少し、意地悪してくれよ。ヨル」

その言葉は挑発でも、服従でもなく。
ただ、心から彼女を欲する男の、まっすぐな願いだった。

「いいよ」

縛られて触れられずにいる彼の手に満足げな視線を落とす。

「今度は私がきみを大切に壊す番」

そして深い口付けを交わす。それはいつもの受け身な彼女とは違い、噛み付くように交わされるもの。

レオは驚くようにわずかに目を見開いた。
だが、そのまま瞼を閉じて彼女の強引なキスを受け入れる。
唇に感じるのは、優しさよりも支配の熱。
いつもとは違う──けれど、確かにヨルらしい愛情の形だった。

「……ヨル」

唇が離れたあとも、レオの声は低くかすれ、感情の余韻がにじむ。ほんのり赤くなった唇と、頬の火照りが熱の名残を物語る。

縛られたままの手がわずかに揺れた。
触れたいのに触れられない。
その焦燥が彼の目を鋭くさせる。

「仕返しと言うには、だいぶ甘すぎるな……」

彼女の許容する声。
ヨルに壊されることすら、望んでしまうほどに彼女を愛している証だった。

「壊すなら、ちゃんと責任取れよ」

まっすぐに見つめ返すレオの瞳には、逃げる余地も余裕もなかった。
それでもそこには、彼女に全てを委ねる覚悟だけが宿っている。

「……俺の全て、ヨルに任せるから」

その一言に込められたのは、愛情と信頼と、ひと匙の降参。だが、ヨルはその言葉に残る余裕に目を細めていた。

「……私、きみが耐えられないもの知ってるんだ」

そう微笑むと一枚上着を脱ぐ。

レオの喉が小さく鳴った。
視線が思わず、彼女の露わになる肌へと吸い寄せられる。
だが、その視線の先にあるのは単なる誘惑ではない。彼の「弱さ」を知っているヨルが、確信犯的に見せた仕草だった。

「……ヨル」

名前を呼ぶ声がかすれ、低く震える。
縛られた手が無意識に揺れる。触れたい、けれど届かない。
それが、今の彼にとって最も強烈な焦らしだった。

ヨルの笑みはどこか無邪気で、同時に悪戯好きな猫のようでもある。レオを知り尽くしているからこそ、どこをどう突けば彼が理性を揺らすかを理解している。

「私はずっとレオを見てるんだよ」

そう言いながら、ヨルは彼のすぐそばまで身を寄せる。
吐息が耳元をくすぐり、首筋をかすめるように唇が触れる。まるで花が舞い落ちるように、しかし確実に熱を落としていく。

「ほら、もう耐えられないでしょ?」

囁く声は甘く、残酷なほどに熱がある。
レオの目元が僅かに険しくなり、肩が震える。
その姿を見てヨルは静かに、深く微笑んだ。

──これは仕返し。
けれどその奥にあるのは、ただの遊びじゃない。
好きだから、知っている。
壊したいくらい愛している。
そして、壊さない程度に、全部奪いたい。

ヨルの唇がもう一度、今度はゆっくりと、レオの鎖を甘く締め上げるように重ねられた。

「私も意地悪が上手になったでしょ」

餌を前に涎を垂らすことしか出来ない獣。そんな姿を見て満足げに微笑むヨル。
すでに理性は焼き切れ、彼を抑えているのは頼りないネクタイのみだった。

ヨルは、わざとらしく上目遣いでレオの瞳を覗き込む。柔らかく笑うその表情には、彼女なりの誇らしさと、少しだけ試すような色が混じっていた。

レオは唇を噛み、息を一つ漏らす。ネクタイで縛られた両手は、もはやただの飾り。だが、その指先には力がこもっているのがわかる。

「……おまえ、それがどういう意味かわかってて言ってるのか?」

低く、けれど掠れた声。喉の奥で熱を押し殺すように呟かれたその言葉に、ヨルはほんの少し肩を揺らして笑った。

「もちろん」

指先が彼の頬を撫で、首筋へ。くすぐるように、焦らすように。鼓動を感じる場所をなぞりながら、耳元に唇を寄せる。

「ねぇ、レオ。きみの理性はどこまで保てる?」

わざとくすぐるような囁き。触れるか触れないかの距離で、ヨルは彼を見下ろす。その動きひとつひとつが、まるで踊るように計算されている。

「……いい加減にしろ」

レオの声に苛立ちはない。けれど、熱を孕んでいる。その目がまっすぐに彼女を捉えていて、理性の薄皮一枚だけで繋ぎ止められているのが伝わる。

「怖い顔」

それでもヨルは怯えない。むしろ、その視線すらも愉しんでいるかのように、指先で彼の唇をなぞる。

「私に、本当に触れたいのなら──ネクタイなんて、簡単にほどけるよ?」

駆け引きの主導権を握ったまま、ヨルは一歩踏み込む。だけどその目には確かな愛情が灯っていて、全てを許すような柔らかさがあった。

わざと、結び目に指をかけて引っ張る。緩んだネクタイが彼の腕からするりと落ちた瞬間、レオの身体がぴくりと動いた。

「もう我慢しなくていいよ」

背中に貼りついていた理性という名の殻が音を立てて剥がれ落ちる。視線は逸らさない。

「……そんなこと言って後悔するなよ」

椅子の背もたれから腕を外し、そっとその細い腰に触れる。触れた瞬間、彼女の体温が指先に伝わってきて、息が熱くなる。
だが、まだ焦らす。まだ、急がない。

「……本気で俺に勝てると思ったのか?」

耳元に口を寄せ、低く、熱を帯びた声で囁く。
そして、唇が触れるか触れないかの距離で止める──この焦らしは、ヨルが教えてくれたやり方だ。

「……今から、ちゃんと責任取らせてやる。ここまでしたんだから覚悟はあるんだろ?」

言葉と呼吸が混ざるように、彼女の首筋へそっとキスを落とす。そのあと、軽く噛んだ。お返しのように。

ヨルは己の行動を思い直すが、好奇心と悪戯心には勝てなかった。いつも余裕があり優しく包み込んでくれる彼が、自分の行動で崩れていく様は強い優越感を与えた。

「勝つつもりなんてない。私はレオの違う姿が見たかっただけ」

いつも壊れそうな宝物を扱うかのように優しく扱う彼の愛情が、酷く歪む所を見たかった。そして、いつも彼がどんな気持ちで私に意地悪しているのか知りたかった。

その瞳は、まるで彼の心の奥を覗き込むように輝いている。

「……おまえは、本当に」

吐息まじりにそう呟く声は、責めるようで、どこか嬉しそうでもある。胸の奥に渦巻いていた感情を引き出したのは、間違いなくヨルだ。

「……そんな風に、欲しがるなら、」

そう言って、ヨルの頬に指を這わせ、そっと顎を持ち上げる。目が合う距離──もう逃げられない、逃すつもりもない。

「これからも何度でも見せてやる」

あくまで優しく、けれど濃密な温度で囁いたその言葉には、明確な支配欲が滲んでいた。
愛しさと独占欲と、噛みつきたくなるような可愛さが全部混ざって、抑え込んでいた本音が溢れ出してくる。

「意地悪の本当の意味、ちゃんと教えてやる」

自分自身の余裕も薄れつつある中、ヨルは愛しい存在の名前を呼ぶ。

「……レオ」

何度も呼んだ名前だが、呼ぶたび違う表情を見せる彼。理性を焼き切って限界に近づいてもなお、私を大切にしようという思いが消えない人。

「好きだよ」

僅かに手の緩んだ瞬間を見計らって耳元で囁いた。

その言葉ひとつで、彼の全てが揺らぐ。
彼女の声、仕草、全部がレオを試して、惹きつけて、もう後戻りなんてできなくさせる。

「それは……反則だ……」

呟きながら、囁かれた耳のすぐ下にそっと唇を寄せる。落ち着いた声のはずなのに、どこか震えていた。感情が、爆発寸前で静かに震えている。

「俺がどれだけ大切にしてるのか、」

視線を絡めたまま、両手をヨルの腰に回す。まだ完全には触れていない、でも境界線のすぐ手前まで来ている。

「どれだけ我慢してるか、分かってて言ってるよな」

その目はもう、いつもの優しさだけじゃない。
熱と欲と、そして深く強い愛情に満ちていた。

「レオは?」
返答なんて分かりきっているはずなのに、どこか儚い微笑みで訊ねる。

「私はきみに全部あげたよ。きみは私に何をくれる?」

レオは少しだけ瞼を閉じ、息をひとつ深く吐いた。
その問いは、ただの駆け引きなんかじゃない。
ヨルの儚げな微笑みの奥に、ずっと抱えてきた不安や渇望が見えた気がした。

「もちろん……俺の全てだ」

目を開けて真っ直ぐに見つめる。その視線には一切の揺らぎがなかった。
手をそっと頬に添え、愛おしむように親指で肌をなぞる。

「身体も、心も、時間も……全部。おまえのためにある」

言葉を継ぐたびに、レオの声は低く、深く染まっていく。まるで、誓いのように。唇をわずかに震わせながら、もう一度確かめるように──

「何度でも言う」

ヨルの額に、そっと触れるようにキスを落とした。

「……愛してる、ヨル」

言葉のひとつひとつが、触れ合う距離よりも深く、彼女の胸に落ちていった。
それが彼からの、何より確かな贈り物だった。

「ありがとう、私も愛してるよ」

さっきまで無理矢理にでも触れてきそうだった彼に、自分からそっと触れる。軽く触れるだけの口付け。いつも交わしている大切な人へのお返し。

「意地悪してごめんね」

レオはそのキスを、まるで壊れやすい宝石でも受け取るかのように、目を閉じて静かに受けとめた。
熱が落ち着いた分だけ、心に直接触れる優しさが胸に染みる。

「……謝るな」

少しだけ目を伏せ、けれどすぐにヨルの頬に手を伸ばして触れる。掌から伝わる体温と、感情の輪郭を確かめるように。

「俺がそれくらいの気持ちを受け止められるって信じてくれてるから、だろ?」

柔らかな声に、少しだけ冗談めいた笑みが混ざる。

「……だからむしろ、嬉しかったよ」

言葉とは裏腹に、どこか困ったような、けれど愛しさに溢れた目で彼女を見つめながら、そっと額を寄せ合う。

「ただ……次はもう少し、心臓にやさしくしてほしいな。おまえに壊されるのは本望だけど、少しずつで頼む」

ふっと笑って、もう一度、彼の唇がヨルの額に触れる。

そのキスは、愛を確かめるためじゃない。
ただ“伝えたくて仕方がなかった想い”をそっと、そっと、預けるようなキスだった。