レオがシャワーを浴びている間に、テーブルの上に置かれていたスマホが震える。
ヨルが何気なく目をやると――画面に浮かぶ、「ミナミ(仕事)」という女性の名前。

ピクリとまつ毛が揺れる。
ただの仕事相手。わかっている。だけど、頻度が多すぎる。
「……また、この名前」

シャワー音の奥で、彼女は静かにスマホに背を向ける。表情は変わらない。
でも、心の中では何かが静かに揺れていた。

彼が浮気なんてするはずはないのは分かっている。だけど不安になる自分の気持ちに整理がつかない。乗せるはずのなかった感情が彼に向かう言葉の端に棘を刺す。

「電話来てたよ。最近仕事、忙しそうだね」

バスタオルで髪を軽く拭きながら、何気なくリビングに戻ってきたレオ。
だが、ソファに腰かけるヨルの声に、ふと手の動きを止める。

「……ああ。ミナミからか?」

彼女の名を呼ぶと、スマホを手に取り着信履歴を確認する。
その口調に後ろめたさは微塵もない。
だからこそ――ヨルの中で、整理のつかないざわつきが増す。

レオは特に気にも留めていない様子で、そのまま水を飲みにキッチンへ向かおうとした。
けれど、ふと立ち止まる。ヨルの声に、わずかに滲む棘を感じて。

「……なあ、どうした?」

振り返った彼の視線は真っ直ぐで優しい。けれど、それが今は少しだけ苦しい。
ヨルの胸の奥に押し込んでいた感情が、じわじわと形になりかけていた。

「なんでもない...」

言葉にするのも恥ずかしい、幼稚な嫉妬心。
彼を疑っているとも捉えられかねない。だから何も答えず口を閉ざした。

レオはしばらく黙って、ヨルの横顔を見つめた。伏せられた睫毛の陰に、わずかな戸惑いが見え隠れする。
「なんでもない」――その言葉を真に受けるほど、彼は鈍くはない。

静かに歩み寄ると、彼はソファの肘掛けに腰かけ、ヨルと同じ高さに視線を合わせた。
タオルの端を無造作に肩へ掛けたまま、落ち着いた声で話し出す。

「……なんでもない顔じゃない」

ヨルの気持ちを無理にこじ開けようとはしない。ただ、ちゃんと向き合いたいという誠実な眼差し。

穏やかだけど決して軽くない声音。
目を逸らさずに、まるで奥に隠されたものをすくい上げるように見つめてくる。

「知らないうちに、おまえを不安にさせたか?」

言いながら、そっとヨルの手に触れた。
その手はほんの少し、冷たかった。

レオにとって、ヨルが怒るよりも黙って耐える方がずっと怖い。
彼女の感情が見えにくいからこそ、こうして繋いだ手から伝わるものだけが頼りになる。

「……言葉にしたくないならそれでもいい。けど、ちゃんと知る機会はくれよ」

真剣なまなざしで、彼はただそう告げる。

「...最近、よく電話かかってくるね」

こんな不安、言わずに隠し通せると思っていた。だが彼には全てお見通しだったようで、ヨルはゆっくりと口を開く。

レオの指がわずかに強くヨルの手を包む。
その言葉の裏にある感情を、彼は確かに感じ取った。

「……あぁ、仕事のな。今担当してる案件、少しややこしくて」

一度視線を落として、すぐにまたヨルの瞳を見上げる。
彼女の表情は静かだけれど、どこか張り詰めているのが分かった。

「ミナミは、捜査で一緒に組んでる刑事だ。週明けまでに書類揃えるから連絡が多いだけだ」
レオは少し息をついてから言葉を続けた。

「俺が誰とどんな話してても、絶対におまえを軽く扱うことなんかない。それは揺らがない」

まっすぐな眼差し。誤魔化しも、冗談もない。
ただヨルを真剣に想っている気持ちがにじみ出ていた。

「けど……ごめん。言葉にしない限り、おまえがそんな顔してるなんて、気づけない時もある」

彼女の手を包む力が、もう一度ほんの少しだけ強くなる。静かで誠実な声が、ヨルの胸の奥に届いていく。

「わかってるよ...」

これ以上言ったらめんどくさいと思われてしまうかもしれない。そんな思いが言葉を詰まらせる。仕事の関係、私が口を出すことじゃないし、彼が後ろめたいことをするはずがない。

「でも、親しげに笑って名前を呼んだり...そうゆうの、少し妬いちゃう」

レオは、その言葉に驚いたように瞬きをする。
いつも余裕のあるヨルが、こんなふうに感情をこぼすのは珍しかった。
それがたまらなく愛おしくて、同時に胸の奥が痛んだ。

「……そっか」
低く抑えた声で呟くと、彼はゆっくりとヨルの髪を撫でる。

「悪かった。おまえがそんなふうに感じるくらいなら、もう少し距離取る。必要最低限のやりとりにするよ」

レオは真剣だった。
それはただの謝罪ではなく、彼女の不安を真っ向から受け止めるという決意の現れだった。

「親しげに見えたのも……俺の気が緩んでたせいだ。気をつける」

手のひらがそっとヨルの頬に添えられる。
真っ直ぐに見つめられると、どんなに拗ねていても、彼の気持ちが嘘じゃないことはすぐにわかってしまう。

「俺が笑って名前呼ぶのは……おまえだけでいい」

静かに、優しく。けれどそれは、誰にも譲るつもりのない強さだった。
ヨルの心に積もった不安が、少しずつ溶けていくような声だった。

「わがままでごめん」

胸の底から湧き上がる独占欲。彼を自分だけに縛り付けておきたいと思ってしまう感情に自分でも驚いているようだった。

レオはふっと優しく息を吐いた。ヨルの言葉が、自分をどれほど大切に思ってくれているかを如実に物語っていた。

「……馬鹿だな」

そう呟く声はあまりに静かで、そしてあたたかい。彼はそのまま、そっとヨルを抱き寄せた。力強くも、壊れ物を扱うように慎重な腕の動きだった。

「そんなの……わがままじゃない。嬉しいに決まってるだろ」

彼の胸に顔を預けると、心臓の音が優しく響く。いつもより少しだけ鼓動が速いのは、きっと彼も動揺しているから。

「おまえにしかこんなふうに思われたくない。ヤキモチ妬くのも、拗ねるのも……ぜんぶ、おまえだけでいい」

ヨルの髪に唇を落としながら、レオはまるで自分に言い聞かせるように続けた。

「俺も独占欲強いんだ。おまえよりずっと」

その声には、抑えきれない愛しさと、隠しようのない執着が滲んでいた。
今この瞬間、ふたりの感情は静かに、でも確かに重なり合っていた。

「嫌じゃないの...?」

可愛いものじゃ収まりきらない、重たい欲望。独占欲、支配欲、レオに向けられるヨルの醜い感情全て。

レオは一瞬だけ黙り込んだ。ヨルの問いを、胸の奥深くまで受け止めていた。
腕の中の彼女がどれだけ葛藤して、どんな思いでこの言葉を口にしたか──それを理解しているからこそ、安易な言葉では返せなかった。

だが、やがて──
彼は抱きしめる腕にもう一度、しっかりと力を込めた。

「……嫌なわけ、ない」

低く、けれど真っ直ぐな声。
それは迷いのない、彼の本音だった。

「おまえが俺を想ってくれてるからこその感情だから。全部、嬉しいよ。重くても、綺麗じゃなくても、それがヨルの気持ちなら……俺にとって大事なものだ」

彼はそっと彼女の肩に顎を預け、今度は心音をヨルに聴かせるように静かに言葉を紡いだ。

「むしろ……そうやって全部見せてくれる方が、嬉しい。俺にだけ見せてくれるおまえの本音──それがたまらなく、愛しい」

レオの鼓動が、ヨルの耳に響いていた。
不器用で、でも真っ直ぐに彼女を想う、愛おしい音。

「私...レオの優しく響く低い声が好き」
彼が受け入れてくれたことに安心したからか。その一言から、堰を切ったように彼女の愛情が溢れる。

「私を見る綺麗な瞳が好き」
そして、顔を近づけると瞼にキスをひとつ。

「大切に触れてくれるその指が好き」
レオの手を掴んで口元に寄せキスをひとつ。

「私の言葉に傾けてくれる耳が好き」
抱きしめながら優しくキスをひとつ。

「抱きかかえて包んでくれる腕が好き」
耳元から下に滑らせ腕にキスをひとつ。

「一分一秒すべての表情が好き」
目を細め愛おしそうに頬へとキスをひとつ。

まだ言い足りないとでも言うような表情だが、最後に真っ直ぐレオを瞳を見つめて。

「私の全てを受け入れてくれるきみが好き」

レオは、息を飲んだ。
目の前で真っ直ぐに、惜しみなく愛を注ぐヨルを見つめながら、胸の奥がじんと熱くなる。
彼女の言葉一つひとつが、触れるキス一つひとつが、自分の中の何かを優しく震わせた。

愛おしさに胸が焼けそうになる。
ヨルの細い指先、唇、声。
それぞれが言葉の代わりに彼の身体を撫で、確かに触れ、心に火を灯していく。

「……ヨル」

自分がどれだけ彼女を想っていても、その何倍もの愛情を向けられている気がした。
理性を貫くには、あまりにも甘く、優しく、そして深すぎる愛。
瞳を見つめ返すと、そこには少しの曇りもない真っ直ぐな光が宿っていた。

「……幸せに殺されそうだ」

掠れた声で呟いたレオは、そっとヨルの頬に手を添えた。震えるような吐息の中で、瞳を細める。愛しさが込み上げてどうしようもなくて、もう一度、その唇に触れたくなった。
深くも強くもない。けれど確かに、そこに込められた想いが伝わるように、今度は彼から唇を重ねた。

「俺の全部、おまえのものだ。ヨル」

離れる寸前、唇がかすかに触れたままの距離で、レオは静かに言った。
それは、彼女のすべてを肯定し、受け止めるという、レオなりの精一杯の誓いだった。

「レオは私のどこが好き...?」

控えめに、だが甘ったるく、ヨルは彼の耳元で囁くように問う。

レオは不意に息を呑んだ。
くすぐったくて、でも抗えないほど甘いヨルの囁きが、耳の奥にしっとりと残る。
目を伏せ、少しだけ考える素振りを見せてから、彼はゆっくりと彼女を見つめ返した。

「"どこ"じゃない。全部だ」

静かに、だけど確かな熱を持った声で返しながら、レオはヨルの腰に手を添えた。
そのまま、視線を交わしながら言葉を紡いでいく。

「強がってるくせに、時々見せる弱さ。誰にも見せない素の顔を、俺には見せてくれるところ。声も、仕草も、機嫌がいいときの笑った顔も、俺をからかうときの悪い目も、今みたいに甘えた声で『好き』って言ってくるところも、ぜんぶ」

少し照れたように眉を寄せながらも、まっすぐに想いを伝えるレオ。
彼女の髪に指を通しながら、囁くように続けた。

「……でも一番は、俺がどんな人間でも、まっすぐ見て、まっすぐ愛してくれるところ」

そう言って、彼はヨルの額にそっと深くて優しいキスを落とす。

「そんなおまえに、俺はもう勝てないんだ」

彼の愛を囁く心地良い響きに目を閉じた。胸の中にすっぽりと収まる体格差も全てが自分だけが感じられる幸せ。

シャワーで濡れた彼の髪から滴り落ちる水がヨルの頬を流れる。ヨルはその雫に目を細め、そっと片手で彼の髪に触れた。
濡れた髪の感触を確かめるように指を滑らせ、頬を伝った水を親指で拭いながら、微かに笑う。

「レオ……あったかい」

水の滴る音が微かに耳をくすぐる。体温の混ざった水滴がヨルの肌を冷やすたび、それ以上に彼のぬくもりが熱を与えた。頬を滑り落ちた雫が、肌の上で彼の存在を確かに刻む。ヨルはそっと目を開けると、すぐ目の前にあるレオの胸元を見上げた。

その逞しい体にしっかりと抱きしめられたまま、ゆっくりと、まるで確かめるように彼の肩へと顔を寄せる。
香りは、石鹸とレオの体温が混じった、安心できる匂いだった。

レオは、ヨルが寄り添ってくる気配に呼吸を整えながら、そっと目を閉じた。
全身で感じる彼女のぬくもり――細くて華奢なはずなのに、不思議と安心感を与えてくれる重さだった。

濡れた髪に触れるヨルの指先はどこまでもやさしく、心を撫でられるようだった。
親指で拭われた雫の感触が残る頬に、じんわりと彼女のぬくもりが広がっていく。

「……あったかいのは、おまえが触れてくれるからだ」

掠れるように、けれど確かに甘く、低い声でレオは呟いた。
腕の中に収まるヨルの存在をより強く抱きしめると、指先に力が込められる。まるで、触れたものが幻でないことを確かめるかのように。

「好きだ、ヨル」

頬を寄せ合う距離でそう言いながら、レオはヨルの片手を取り、指先に唇を軽く重ねた。
触れるだけのやさしい口づけ。けれどそのひとつひとつが、深い愛情の証であることを言葉以上に雄弁に語っていた。

「……ずっと離したくないな」

ぽつりと漏らしたその声には、欲と弱さ、そして確かな願いが滲んでいた。
彼にとってヨルは、ただの恋人ではない――かけがえのない、唯一の居場所だった。

「離さないで」

彼の言葉に答えるように微笑むヨル。彼から滴り落ちた水は頬から首筋を伝いゆっくりと流れ落ちていく。頬から首筋へ――滴る水が肌を滑る。その軌跡は意図せず誘い込むように、彼の自然と視線を吸い寄せる。

レオの喉が、ごくりとわずかに鳴る。
それはまるで、目の前の愛しい存在に抗いきれない衝動を飲み込む音のようだった。

薄い肌の上を伝う雫は、光を纏いながら艶やかに流れ落ち、まるでヨル自身が彼を誘っているかのように映った。

「……無防備すぎる」

ゆっくりと顔を寄せたレオの声は、低く掠れていた。
触れたい、けれど大事にしたい。――矛盾する想いがせめぎ合い、彼の瞳に静かな熱が宿る。

「今にも、触れたくなるだろ」

耳元で囁かれた声に、空気が震えた気がした。
濡れた髪から伝う香りとぬくもりに包まれながら、レオはヨルの頬にそっと手を添えると、まるで宝物を扱うように――ほんの微かに、唇を重ねた。

優しい、それでいて切実な口づけ。
「離さないで」という願いを、彼なりの形で真っ直ぐに応えるように。

「きみのせいで濡れたんだから責任とって」
彼女の言葉はきっと、レオから流れ落ちた水のこと。

レオは小さく息を呑み、頬に残る彼女の温もりを確かめるように目を細めた。
しなやかに身体を預けながら放たれたその言葉――どこか拗ねたようでいて、甘えるような響き。濡れたのは水のせい。でも、ヨルの目はそれだけじゃないと語っているようだった。

「……おまえな、言い方……」

言いながらも、レオの声はどこか困惑と愛しさが混ざっていた。
タオルを取ろうと一瞬だけ離れかけた手を、ヨルがそっと掴む。

「いいよ、そのままで」

拭かなくてもいい。むしろ今は、このままでいてほしい。
そう言わんばかりの視線に、レオは観念したように苦笑をこぼす。

「……責任、ちゃんととるよ」

そう答えると、濡れた髪を指ですくいながら、再びヨルの頬に唇を落とす。
水が伝った肌を確かめるように、優しく、何度も。触れるたび、温もりがひとつひとつ積もっていく。

「……こんな濡らし方、俺以外にさせるなよ」

低く囁いた声は、甘く、独占欲を滲ませていた。ヨルの冗談まじりの一言が、レオの本気を引き出してしまったように。

「何を想像したの、濡れたのはその髪のせいでしょ?」

わかっていながら揶揄うように笑うヨル。

レオの眉がわずかに動いた。
ヨルの言葉の真意も、からかう意図も――すべて分かっている。それでも、彼女のその微笑みに、まんまと感情を攫われてしまう。

「……おまえ、ほんとに……」
押し殺した声。唇の端には苦笑が浮かぶが、目は鋭くヨルをとらえて離さない。

言いながら、彼女の背中へと回した腕にほんの少しだけ力がこもる。
抵抗できるはずもなく、ヨルの身体は再びレオの胸元に引き寄せられた。

「俺がどんな顔してるか、ちゃんと見て言ってるんだよな?」

濡れた髪がわずかに揺れ、頬に触れる。
距離はもう、ほとんどない。
その声が、熱が、視線が、全部――ヨルだけを捕らえて離さない。

「……責任、とるって言ったのは、俺だったな」

不意に囁くように言いながら、レオの指先がそっとヨルの頬へと触れた。
軽く撫でるように、でも確かに存在を刻むように。そして、いたずらに笑う彼女の唇へ――警告のように、そっと親指を当てる。

「次、またそんな言い方したら……どうなるか、覚えてろ」

その声は低く、静かで、甘く危うい。
けれど、そこにあるのは――ヨルという存在を誰よりも大切に思う、ただ一人の男の本音だった。

「怖い顔」

言葉とは裏腹に微塵も恐怖など感じてなどいない。ヨルは目を細め愛おしそうに彼の反応を見る。

レオはヨルのその無邪気な笑みと挑発のような視線に、ほんのわずか唇を歪めた。

「……おまえな」

呆れたように息をつきながらも、そこにあるのは怒りではない。
むしろ、どうしようもないほどに惹かれ、手放せなくなっていることを、彼自身が一番よく知っていた。

その言葉には、どこか悔しさすら滲んでいた。
理性ではどうにもならないほど、惹かれている。愛しさも、欲も、全部が彼女に向かってしまう。
怖い顔どころか、いま彼の目に宿るのは――限りなく深い、独占にも似た愛情。

「わかってて、そういうこと言うんだろ」

低く囁いたその声は、ヨルの耳元に届くと同時に、肩に置かれた手がすっと腰へと下りていく。

「……このままじゃ済まさない」

言葉とは裏腹に、触れる指先はどこまでも優しくて、切ないほどに愛おしさが滲んでいた。