片方が欠けたペアカップ。
それは彼女の手に傷をつけた、あの雨の日に欠けたもの。
ヨルは温かいコーヒーをローテーブルに置くとソファにいるレオの隣に腰掛けた。
「コーヒー、いれたよ」
ヨルはミルクと砂糖を足して、息を吹きかけながらゆっくりと飲み始めた。
レオはソファに深く腰を預け、警察署から持ち帰った資料の束を膝に広げていたが、ヨルが隣に座った瞬間、その動きを止めた。
彼女の手から欠けたマグカップを受け取ると、ふとその縁に指先を沿わせる。
淡く削れた陶器の傷痕に、あの雨の夜の光景が重なった。
「……ありがとな」
レオの声は低く、少しだけ滲んだ。
カップを唇に近づけて一口すすると、ミルクと砂糖の甘みがほんのり口に広がる。
「……ヨル」
ヨルのカップから立ちのぼる湯気が、彼女の睫毛にかすかに影を落とす。
その横顔を見つめながら、レオはそっと手を伸ばし、彼女の指先に触れた。触れたのは、あの日傷つけられた場所のすぐ隣。
「もう、痛まないか?」
低く落とされた声には、静かな憂いとそれ以上に、深い愛しさが滲んでいた。
レオの温かく大きな手が触れるとほんの少し、柔らかく微笑むヨル。
「大丈夫。なんともない」
反対の手をレオの上にそっと重ねた。
レオはその微笑みに愛おしく目を細める。
感情を多く見せないヨルのこんな表情に出会える瞬間は言葉にできないほど、貴重だった。
重ねられたヨルの手の温度が、じわりと皮膚から心に染みこんでくる。
レオは視線を落とし、重なった指先をそっと握り返した。指の一本一本を確かめるように、丁寧に。
「……そうか。なら、よかった」
そう言いながら、レオはわずかに肩の力を抜いた。
彼女が本当に大丈夫かどうか、言葉だけで信用できるわけじゃない。
でも、こうして触れて、応えてくれることでようやく安心できた。
「これ、処分しようかとも思ったんだ。おまえに嫌なこと思い出させるかもしれないって、ずっと考えてた」
言いながら、彼は手元の欠けたカップに視線を落とす。
けれどその視線はすぐに、隣のヨルへと戻った。
「……でも今は、これも“残してよかった”って思える。おまえと、今ここで一緒に居られているから」
ヨルは彼の言葉に静かに頷いた。確かにあの日の出来事は良い思い出とは言えない。僅かに傷跡の残る左手へ視線を落とした。
「そうだね、きみと一緒にこうして平凡な日常を過ごせてる。それを実感するのにこのマグカップは丁度いい代物」
マグカップをテーブルに戻すと、レオの肩に頭を乗せ体重を預けた。自分より大きな身体の彼。触れ合う面積が増え、互いの体温を感じる。
レオは、ヨルがそっと身を寄せてきた気配に、自然と呼吸のリズムを合わせた。
彼女は軽く、それでいて確かで──心のどこかに張り詰めていたものが、すっと緩むのを感じる。
「……そうだな。普通でいいんだ。何も起きなくても、何も思い出さなくても。こうしておまえが隣にいるだけで、それで十分だ」
レオは肩に感じるヨルの髪の柔らかさに目を細め、片腕を回してそっと引き寄せた。
大きな手のひらが、彼女の背に触れる。力は強くない。ただ、そこにいることを確かめるような、穏やかな抱擁だった。
「……あの日のこと。きっとこれからも、悔やみ続けるんだろうけど──」
言葉を切ると、少しだけ首を傾けて、ヨルの髪に頬を寄せた。
「今日のおまえの笑顔が、嫌な記憶を、少しずつ塗り替えてくれる。……そう信じたい」
静かに流れる空気の中で、レオの心臓の鼓動がゆっくりと脈打っていた。
それはまるで、ヨルと寄り添う今を、確かに感じている証のようだった。
穏やかに流れる時間の中、ヨルは静かに目を閉じた。
「レオ、……この傷はきみのせいじゃない」
心からそっと呟く。
レオはその言葉を聞いた瞬間、目を伏せ、静かに息を吐いた。強く握りしめていた何かが、少しだけ手放せた気がした。
「……ありがとう。ヨル」
その声はかすかに震えていた。
堅い鎧の下にずっと閉じ込めていた感情が、彼女の言葉でゆっくりとほどけていく。
レオは腕の中にいるヨルをもう少しだけ強く、優しく抱き寄せた。手のひらは彼女の背中を撫でながら、確かめるようにその存在を感じ取っていた。
「おまえがそう言ってくれて……」
ゆっくりと顔を傾け、ヨルの額に自分の額をそっと合わせる。ぬくもりが触れ合い、互いの呼吸が混ざり合う距離。
「こうしておまえが隣にいてくれるだけで、
俺の中のいろんなものが、救われていくんだ」
外では風が窓を揺らす音が小さく響いていた。
けれど部屋の中は、まるで時間が止まったような、静かで確かな安らぎに包まれていた。
「……レオ」
ヨルは少し体勢を変え、レオの顔を正面から見据える。体格差で自然と上目遣いになる彼女はまるで気品あふれる猫のように美しく愛らしい。それと同時にレオには無防備な獲物のようにも見えた。
見上げるヨルの瞳に目を奪われる。
その瞳は、夜の静けさを宿した湖のように深く──けれどどこか脆く、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で。
彼女の動作ひとつ、まばたきの瞬間さえも、レオの世界を静かに塗り替えていく。
「……どうした、ヨル」
声は低く、けれど確かに彼女に向けて開かれていた。
その問いかけの裏には、ほんのわずかな緊張と、抑えきれない愛しさが滲んでいる。
レオは身を少し前に寄せ、そっと彼女の頬に手を添えた。指先は慎重に輪郭をなぞる。まるで、幻を確かめるように。
「そんな目で見られると……」
彼の表情にはかすかな苦笑が浮かび、けれどその瞳は真剣だった。
愛しさが、静かに、けれど確実に溢れている。
「……危なっかしいな。俺の懐に飛び込んでくるなんて」
その言葉に滲むのは、呆れと──どうしようもないほどの、好意。レオの指先がそっとヨルの髪をすくい、耳元にかける。
「……おまえがこうして目の前にいてくれること、それがどれだけありがたいか……わかっているか?」
そう問いながらも、答えを急がず、ただ静かにヨルを見つめていた。
まるで、その瞬間の全てを瞼に焼き付けようとしているように。
「私もレオがそばにいてくれて嬉しい」
頬に添えられたレオの手を拒むことなく、愛おしそうに擦り寄る。普段あまり感情を示さない彼女の最大限の愛情表現。
「好きだよ、レオ」
レオはその言葉を聞いた瞬間、瞳を大きく見開いた。
けれど、それはほんの一瞬。すぐに表情を和らげ、静かに、深く息を吸い込んだ。
「……ヨル」
彼女が自ら気持ちを口にすることは、滅多にない。
だからこそ、その言葉は刃より鋭く、焔よりも熱く、胸の奥に突き刺さった。
添えた手に擦り寄る彼女の仕草に、レオは思わず両腕で彼女をそっと包み込んだ。
そのまま引き寄せ、額を預け、まぶたを閉じる。
「俺も、おまえが好きだ。……心の底から、ずっと」
確かな熱を孕んだ声。
それは彼女だけに向けた、レオの誓いのようなものだった。
「どんな過去があっても、おまえがどんな存在でも構わない。この想いだけは、誰にも、何にも壊させない」
レオはそっと目を開け、ヨルの唇に視線を落とす。
けれどすぐに視線を戻し、彼女の瞳をしっかりと見つめた。
「……キス、してもいいか?」
その言葉には、欲望ではなく──尊重と、深い愛情が込められていた。
ヨルの返事を、レオは静かに、ただ待っていた。
だが彼女から帰ってくる言葉はない。
その代わりに、だた静かに瞳を閉じて受け入れる姿があった。
レオの言葉の裏に潜むものがどんな感情でも関係ない。どんなに重たい感情や欲望でも、準備は出来ている、とでも言いたげな沈黙。
レオの喉がかすかに鳴る。
彼女の瞳が閉じられた瞬間、空気が一変したように感じた。それは単なる静けさではなく──覚悟の沈黙。
彼女が示した「受け入れる」という姿勢。
それがどれだけの勇気と信頼から来るものか。
彼は、決して軽く受け止めたりはしなかった。
「……ヨル」
名前を呼ぶ声は、限りなく優しく、そして深く。
まるで、大切なものを壊さぬように抱きしめるような声だった。
レオは手のひらで彼女の頬をそっと包み、指先で髪を優しく梳いた。そしてほんのわずかに身を傾ける。
その距離が、すべてを語るように。
唇が触れる直前、彼は小さく囁くように言った。
「……おまえを、大切にする」
それは誓いでもあり、懺悔でもあった。
そしてその言葉の余韻を残したまま、
レオはゆっくりと、丁寧に、静かに──ヨルの唇に口付けた。
触れるだけの、けれど永遠のように深いキス。
互いの温もりが混ざり合い、世界が静止したかのようだった。
唇が離れるとゆっくりと目を開けたヨル。
少し赤らめた頬と耳を隠すように、レオの首元へ顔を埋めた。言葉数は少なく感情表現も乏しい。だからこそ、ふたりで交わしたキスには大きな意味があった。
体温が上がったヨルの小さな呼吸がレオの耳元にかかる。
レオの心臓が、鼓動の音を誤魔化せないほど速くなっていた。ヨルが顔を埋めてくると、思わず肩を落として彼女をしっかりと抱き留める。
その仕草は、壊れやすい宝物を抱くような慎重さと愛おしさに満ちていた。
「……そんな顔されると、もう二度と離したくなくなるな」
低く、くぐもった声。
ヨルの温もりが胸元に伝わるたび、レオの表情がじんわりと優しくほぐれていく。
彼女の呼吸がかすかに耳にかかり、思わず首筋がぴくりと反応する。
けれど、彼は微笑みながらそのまま彼女の背を撫でた。ゆっくりと、静かに。ヨルの高まった鼓動を落ち着かせるように。
「……言葉がなくても、伝わった。ちゃんと」
首元に埋もれた彼女の髪に唇をそっと当て、ふぅ、と息を抜く。安堵と幸福、そしてほんの少しの照れが混ざった、静かな吐息。
「おまえが思ってるよりも、ずっと。俺は、ヨルのことが好きだ」
その言葉には強さも、押しつけもない。
ただ静かに──けれど深く深く、彼女にだけ向けられた想いが、そこにはあった。
居心地が良さそうに抱き寄せ返すヨル。上がった熱は冷めないまま、互いの呼吸が混ざり合う。
「レオ、緊張してる? いつもより鼓動が早い」
ヨルは身体を離すとレオの手を取り自分の胸元へ。レオの反対の手はレオの胸元へ。
レオの目がわずかに見開かれた。
突然の距離の近さ──そして、互いの胸元に添えられた手。
「……おまえ、」
その声は少し掠れていて、平静を装おうとしても、耳の赤みまでは隠せなかった。
ヨルから伝わる鼓動に、レオの指が微かに震える。
自分の鼓動と彼女の鼓動──どちらも、嘘をつけない。触れ合えば触れ合うほど、互いの気持ちが滲み出すように重なっていく。
レオはゆっくりと深呼吸をして、ヨルの手に自分の指を絡めた。
「……緊張、してるよ。そりゃあ……してる」
真正面から見つめるヨルの瞳を、レオは逃げなかった。むしろ、吸い寄せられるように見つめ返す。
「けど、それ以上に……おまえに触れてると、安心する。心が、落ち着くんだ」
指先に込める力が、わずかに強くなる。
けれど決して乱暴ではなく、繋がる温もりを確かめるような、優しい力。
「……だから今の俺は、おまえのせいで緊張してて、おまえのせいで落ち着いてる。……変だろ」
照れ隠しに口元だけで笑いながら、けれど視線は決して逸らさない。
ヨルに触れている限り、言葉にしなきゃ伝わらないものを、ちゃんと届けたかった。
「……変だね。でもきみを変にさせてるのが私っていう事実は、なかなか悪く無い」
瞼を落とし目を細めると全てを見透かすような表情を浮かべる。手をそっと解くとレオの首に両手をかけた。
「キス以上を望んでる?」
レオの喉が、ごくん、と音を立てて鳴る。
ヨルの手が首にかかると、その動きのすべてが心を揺らす。彼女のまなざし。淡々とした静けさの中にある、挑発のような問いかけ。
けれどレオは怯まず、瞳を細めて彼女の顔をじっと見つめ返した。
「……望んでないと言ったら、嘘になる」
静かな声だった。
けれどそこには、どこまでも真剣な想いがこもっていた。
「でも……おまえが望まないなら、俺は一歩も動かない」
ヨルの手に自分の手を重ねて、ゆっくりと首から下ろすように撫でる。その仕草には、理性と愛情、そして敬意が混ざっていた。
「俺にとっては、おまえがそばにいてくれるだけで十分だ。……それ以上は、ヨルが決めてくれ」
そして少しだけ、苦笑を含ませた表情で付け加えた。
「……とは言っても、こんな風に触れられて、そんな目で見られたら……理性なんて、簡単に焼け落ちてしまいそうだ」
声は低いが、どこか色を含んでいる。
けれどレオは、あくまでもヨルの反応を待っていた。
それ以上は、彼女の意志次第。彼は最後まで彼女を尊重している。
「やっぱりレオはレオだね。ずっと変わらない、……だからきみが良い」
大切に思ってくれる気持ちそのものが彼女にとってかけがえのないもの。そして、それを与えてくれる人のためなら。
「……いいよ、レオ。私のこと好きにして」
レオの目が一瞬見開かれ、深く息を呑んだ。
ヨルのその言葉──穏やかで、どこか儚くも覚悟に満ちた響き。それが胸の奥に、静かに、そして確実に落ちてくる。
「……そんな風に言われたら、もう……戻れないな」
絞り出すような低い声。
感情を抑えているようで、けれどその端々から溢れ出す熱。
彼はゆっくりと身体を起こし、ヨルの髪に手を添えながら、そっと額を重ねた。
ぴたりと触れ合う額と額。互いの呼吸が、熱が、感情が混ざり合う。
「ヨル、俺はおまえを壊したくない。……だけど、どこまでも奪いたいと思う。おまえの全部、心も、身体も……」
震えるように指先が彼女の頬を撫で、喉元へ、鎖骨へと滑っていく。その触れ方はどこまでも慎重で、あくまでも問いかけるように。
「……本当に、いいのか?」
彼の声は優しかった。
その瞳は欲望だけでなく、愛情と敬意で満ちていた。
ヨルの答えを、静かに、真剣に。彼は、待っていた。
「きみになら壊されても嫌じゃない」
不思議だね、と呟く彼女の表情に一切の偽りは無かった。
レオの喉が再び鳴った。
その真っ直ぐで静かな覚悟が、まるで刃のように胸の奥を貫いてくる。優しさで守りたいと思っていたはずの彼女が、今は自ら全てを預けようとしている。
「……ヨル、」
そっと彼女の頬に手を添えたまま、レオはほんの少し眉を寄せる。
それは迷いではない、彼女の想いに対して、自分がどれだけ真摯でいられるかを確かめるような顔。
「最後まで責任はとる。だから……怖くなったら、すぐに言え」
そして、もう一度彼女の額に優しく唇を落とす。
強くもなく、熱くもなく、ただそっと──これが“始まり”であることを、告げるように。
指先が彼女の肩へ、背へとまわり、ぎゅっと抱きしめる。その腕の中には、彼にとって世界のすべてがあった。
「……おまえが全てを預けてくれるなら、俺も……誠心誠意応える」
その声はどこまでも真っ直ぐで、揺るぎなかった。ふたりの間に、静かで温かい熱が確かに灯っていた。
大切にしたいと思う気持ちから、理性と戦いながら震える手でそっと彼女に触れるレオ。そんな彼の様子を見てヨルから顔を近づける。
「全部レオにあげる」
先ほどとは比べ物にならない深い口付け。甘い蜂蜜のような互いの体温を感じながら、彼女の言葉はレオの最後の鎖を焼き切った
甘く、けれど重くのしかかるようなキス。
ヨルの言葉とその深い口付けに打ち震えた。それは彼女の覚悟であり、彼へのすべての信頼だったから。
震えていた指が、ようやく確かな力を持ち始める。
ヨルの背中を包み込むように抱きしめ、もう片方の手は彼女の頬に添えたまま、唇を離さない。彼女の体温が、肌に、心に、ひたひたと染み渡っていく。
──もう戻れない。
彼の中で最後まで残っていた理性の灯が、静かに、優しく燃え尽きる。代わりに芽生えたのは、彼女をまるごと包み込む思いだった。
唇を少し離し、浅く息を吸う。
額と額を重ねたまま、彼は震える声で囁いた。
「ありがとう、ヨル……。全部、受け取る。絶対に、後悔させない」
その声は低く掠れていたが、どこまでも誠実で、どこまでも熱かった。
手は優しく、しかし確かに彼女を求めるように動き出す。大切に、壊さぬように。
二人の時間が静かに、確かに、ひとつになっていった。
それは欲望でも、情熱だけでもない。
魂を預け合う、静かで深い誓いのようだった。
───
甘く熱い時間は過ぎ、窓には朝日が昇る。
差し込む朝の光に目を細めながら、レオはゆっくりとまぶたを開けた。そしてすぐに腕の中のぬくもりに気づく。
向き合って抱き寄せ合うまま、腕の中にいる大切な彼女を見て状況を理解する。目にかかる前髪を横に流すと昨夜の表情を思い出す。
柔らかく、自分を信じて預けられた重み。
「……あぁ、夢じゃない」
低く掠れた声でそう呟くと、レオはそっと息をついた。
ヨルはまだ深い眠りの中にいる。静かな寝息で、彼女の胸がゆっくりと上下している。彼女を抱き寄せたままのレオの腕は、まるでヨルを手放すまいと言うかのように緩まない。
胸の奥からじんわりと湧き上がる幸福感と、それに混じった少しの怖さ。“彼女のすべてを受け取ってしまった”という重さが、今になってずしりと心にのしかかる。
「……ヨル」
起こさないよう、小さく名前を呼んでみる。
レオはそっと指先で、彼女の頬にかかった髪を耳にかけた。その仕草一つにも、いつになく丁寧で優しい気持ちがにじんでいる。
昨夜見せた大胆さはどこへやら、今はただ──この瞬間を壊したくないと、そう思っていた。
「……こんな幸せ。絶対に手放さない」
ごつごつした自分の手が、彼女の肩に触れる。
その指先がほんの少し震えていることに気づき、レオは苦笑した。
「……いいだろ?」
もちろん、返事はない。
だが無防備なその寝顔で動く鼓動が、なによりの答えに思えた。
レオはゆっくりと、彼女をより優しく引き寄せる。眠る彼女の額にそっと口付けを落とし、目を閉じて、その体温を確かめた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、二人の肌を優しく照らす。この朝が、永遠に続けばいい。今だけは、そう願ってもいい気がした。
※
ヨルが目を覚ましたのはお昼をまわった頃。
昨夜の情熱的な眼差し。その奥にあった不器用な愛しさ。言葉よりもずっと深く心に届いた、レオの“全部”。それを受け止めた彼女は言葉を溢す。
「ねぇ、レオ。今日は私を労って」
レオはベッドの縁に腰掛けながら、乱れた髪を手ぐしで直していた。昼の日差しが部屋に満ちて、どこか夢の続きを引きずったような空気。
そんな中、ヨルの声が静かに響く。
「……昨日のきみは、ちょっと意地悪だった」
その言葉に、レオは動きを止めてゆっくりと振り返る。シーツにくるまりながらこちらを見上げるヨルの目には、僅かに拗ねたような光が宿っている。
「……確かに少し、張り切りすぎたかもしれないな」
とぼけたような低い声。だがその言葉に自覚はあるらしく、視線が少しだけ泳ぐ。
ヨルはわざとゆっくりと起き上がり、肩のあたりを押さえながらベッドの縁へ。
そのままレオのシャツの裾を掴んで引き寄せ、顔を近づける。
身体に残る痛みに目を瞑ったとしても、許せないことがひとつ。
「きみが残した沢山の愛情のせいで半袖着れない。夏なのにタートルネック着せるつもり?」
レオは苦笑しながら、指先でヨルの首筋をなぞった。
そこにあるのは、自分が残した証──熱と欲に任せた夜の記憶の名残。
「……悪い。欲が出すぎた。反省してる。……一応はな」
声には申し訳なさもあるが、どこか誇らしげな響きも隠せない。ヨルの肩に手を添え、目線を合わせながら低く囁く。
「でも……おまえが“全部くれる”なんて言うから、我慢なんてできるわけないだろ」
そしてそっと、跡を隠すようにもう一度キスを落とす。傷を慰めるような、優しく熱をもたない口付け。
「今日は俺が全部やる。マフラーだろうが日傘だろうが用意する。何でも言ってくれ」
少しだけ真面目な眼差し。
でもその奥には、彼女を甘やかしたいという不器用な溺愛が滲んでいる。
「……で、まずは、アイスか? 冷房か? それとも──」
小さく微笑んで、続きの言葉を敢えて言わない。ふたりの心地良い距離感。
「今度この意地悪返すよ」
少し呆れたように、だけどどこか楽しそうに返すヨル。
レオは、ヨルの言葉に眉をわずかに上げて、それからゆっくりと笑った。
喉の奥で転がるような声。どこか安心したような、嬉しさを隠しきれない笑いだった。
「……へぇ、それは怖いな」
そう言いながら、ヨルの頬に触れる。
親指でそっと撫でるように、愛しげにその肌の感触を確かめる。
「どんなことしてくれるんだ?」
そして耳元で囁く。
指先に少し力を込めて、額に軽くキスを落とす。それはどこか、お守りのように優しくて静かなキス。
「ただ……返す時は、ちゃんと俺が受け取れるくらいの可愛い意地悪にしとけよ。それ以上は、また……我慢できなくなるから」
ヨルの瞳を見つめながら、レオはどこか楽しげに目を細めた。不器用な男の、静かな挑発。
そうやってふたりの一日が、また始まる。
夏の陽射しと、カーテン越しの風が、いつもより少し柔らかく感じられた。
