君と笑い合ったあの日々を、「演技」だなんて言わせない

1. 演技にかける想い

 連日のテストも終わり、とうとう夏休みに入った。それと同時期に梅雨明けが発表され、その日を境に猛暑日となるところが急増した。八月となった今日も各地で猛暑日となっていて、あまりの暑さに俺は項垂れていた。蒸し暑かった梅雨とは違い、夏本番は外にいるだけで汗が滲んでくる。ぎらぎらと照りつける日差しが、肌をどんどん焼いていく。これが嫌で俺は夏が好きじゃない。
 演劇部の練習へ出席するために体育館へ向かっていたのだが、思った以上に時間があったので自分の教室を覗きに行く。
 今は学校中が文化祭の準備に取り組んでいる。開催される九月中旬まで残りあと一ヶ月ほど。夏休み前に決めた各出し物の準備を、夏休みの合間を使って行っている。もちろん強制ではないし、全く準備をしないなんてことも全然ありだ。クラスによってはなかなか士気が上がらなかったり、焦りが生まれる時期でもあるのだろうが、俺のクラスはそんなことはなかった。実行委員と北上さんを中心にうまくまとめられているのだろう。
「あれ、暁斗じゃん! どうしてここに?」
 俺を見つけた文化祭の実行委員を担うクラスメイトの木村(きむら)がそう声をかけてくると、他の人からも視線が集まる。木村とは「演劇を観るのが好き」という共通点で、終業式間際に仲良くなった人物。俺が演技をするのを心の底から待ち侘びてくれている人物の一人だ。
「時間に余裕があるから、何か手伝えないかなって」
「その時間は演劇に使いな。そのために暁斗には仕事を渡してないんだから」
 オーディションに合格したことが知られると、文化祭はそっちに集中した方がいいと言って強引に仕事を外されてしまった。そこまで気を遣わせるのは少し胸が痛かったし、周りからどんな目で見られるか不安だったのだが、「最高の演技を見せてくれれば良い」と多くの賛同者がいたので、素直に従わせてもらった。「あいつは仕事がなくて幸せだな」なんて嫌味も言われるが、味方してくれている人たちに励まされながら、なんとか頑張っている。
 今日もまた何も手伝えなかったが、体育館へ向かいながら台本を取り出して、気分を切り替える。沢山ある時間を使って今日の練習範囲を確認するために、近くにあった階段の二段目に腰を下ろす。ここはなかなか人も通らないので集中できるだろう。セリフを追いながら、頭から漏れていないか確認する。そして同ページに貼った付箋から、演技の仕方もおさらいする。
「なーに泣いてんの、台本と睨めっこして。それもこんな場所で」
 突然降ってきた言葉に目を見開き、顔を上げる。そこには久々に見る鈴さんの姿があった。最後に会って一週間しか経っていないのに、なぜかとても久しぶりに感じ、会えたことがとても嬉しく感じる。そしてどれくらい時間が経ったのだろうかと考えていると、自分が泣いていることに遅れて気づく。見られてしまった恥ずかしさが湧き上がって視線を逸らす。
「ご、ごめん。色々あって」
 自分でもなんで泣いてるのかわからないので、適当に濁す。すると彼女はただ一言、「そっか」と零して俺の隣に座る。
 どちらも口を開かないこの沈黙が少し気まずい。ふと鈴さんの方を見ると、どこか悲しそうな顔をしていて、何かあったのかなと不安が顔を覗かせる。
 突然顔を上げて、遠くを見るような目で彼女は言う。
「暁斗くんは、何も変わってないよ」
「……ど、どういうこと?」
 脈略なくそんなことを言うので、動揺のあまり言葉がすんなり出ない。混乱して言葉の真意がわからず焦りあたふたする俺に彼女は、「落ち着いて」と吹き出す。
(けな)してるわけじゃなくて、……暁斗くんの本質的な部分は何も変わってないってこと。優しいところも、あなた本来の演技も」
 彼女の言われて、引っかかり続けていたものの正体がわかる。きっと俺は、演劇を通して本来の自分を見失うことが怖かったのだ。確かに演技ばかりする最低な自分は嫌いだし、早く変わってしまいたいと願う日々がずっと続いていた。変われない自分に絶望し、消えてしまいたいときも、涙が止まらないときもあった。だがもし俺が変わってしまったら、そんな自分に声をかけてくれた、そんな自分と仲良くしてくれた人たちの知る俺は、自然と消えていく。それが怖かった。変わってしまった俺はそんなに好きじゃないなんて言われたら、あまりにも苦しすぎる。「変わる」ということは、過去の自分を完全に捨てることになる。その勇気が、俺にはない。
 ここまで結びつけてくれたのは、過去の俺だから。
「変わらないっていう選択も、一つの正解だと思うよ。私が出会ったのは、今の君じゃないし」
 彼女は心を覗くかのように優しく語りかけてくる。その優しさが、抱いた恐怖心を軽くしてくれる。それに対して俺は、すぐに浮かんだ疑問を口にする。
「どうして君は、今の僕と仲良くしてくれるの? 過去の僕は、少しずついなくなってきているのに」
 彼女は途端に視線を逸らし、頬を赤らめる。そして聞こえるかどうか曖昧な声で呟く。
「君が、好きだからに決まってるじゃん……」
 少し聞き取りづらいのに、普通なら聞こえないはずなのに、なぜかすんなり脳に入ってくる。処理に時間がかかって、認識した頃には俺も視線を逸らしてしまう。
 急な告白に気付いたのか、彼女は慌てて手をブンブン振って否定する。
「ち、違うからね! 今のは、……嘘! 忘れて! 忘れてっ!」
 まるでりんごのような顔の彼女は、バレバレな嘘を並べる。ここまできて撤回できるわけないだろ……。
 心臓の鼓動が速くなり、声が出せない。すでに十分暑いのに、体温はさらに上昇する。
「も、もうっ! 全部暁斗くんのせいっ! 早く体育館行こ!」
 顔を真っ赤にして膨らませ怒る彼女が、先陣を切って体育館へ駆けていく。そんな姿が本当に可愛くて、つい吹き出してしまう。なんか悩んでいたのが馬鹿みたいになる。
 ずっと蓋をしていた、厄介なあの感情。少し開けてみるのも良いかもしれない。
 部活の練習は、俺も鈴さんも全然上手くいかなかった。噛んでしまったり、セリフが飛んだり……。たまたま目があったとき、思わず二人で笑ってしまった。

 長いようであっという間な夏休みは、今日で終わりを迎える。明日から学校が始まり、一日を演劇に費やすことも難しくなる。
 一ヶ月ほどの夏休みを振り返ると、なかなか良いものとは言い難い気もする。課題が終わっていないとかそういうことではないのだが、ほとんどを家で過ごしたことが心残りだった。部活が沢山あるのは嬉しかったが、やっぱりどこか旅行とかにも行きたかったな。両親の仕事が忙しいから到底無理なんだけど。
 今日の練習が終わり、声量のバランスや感情表現がなかなか上手くできたんじゃないかと自画自賛する。上機嫌で帰宅の準備をしていると、どこからともなく現れた高華さんに声をかけられる。
「今日の演技も最高だったね。ほんと、初心者とは思えないや」
「そ、そこまでは……」
「いや、本当にすごいよ。先輩なのに負けちゃった気分だよ。沢山学ばされるし」
 曇りのない目をする彼女から、嘘ではないことがしっかりと伝わってくる。しかしどこか悲しそうな、苦しそうな表情を時々浮かべる。
 踏み入らないほうがいいかとも思ったが、恐る恐る尋ねる。
「何か、あったんですか?」
 すると彼女は目を丸し、「演技が上手いと見破ることもできるのか」と冗談混じりに呟く。少し俯いた彼女は、今度は俺にしっかりと向き直って口を開く。
「オーディションで君を久しぶりに見たとき、私は正直もう演劇を辞退したかった。君があまりにも上にいて、手が届きそうになかったから。正直なことを言えば、君には落ちてほしかった。でも、それは無理だろうなって思ってたよ。だって、文句のつけどころがないんだもん。あなたの演技が、不完全だったから」
 不完全なら、だめなのではないか。そう聞こうとしたが、隙なく続きを話す。
「完璧じゃなかった。触れるだけで壊れてしまいそうな、何かが欠けたら成り立たない、あまりにも繊細すぎる演技だった。そんなの私は知らなかったし、最初は信じられなかった。でもなぜか惹き込まれて、いつの間にか白旗を上げてた」
 何か悪いことをしたような気がして、気分が沈んでいく。謝るべきだろうかという迷いを、彼女の言葉が断ち切る。
「君のおかげで私は変われたよ。今回の演劇は、私の最後の年でもある。君からもらった『新しい形』の演技を、存分に生かさせていただくね」
 にっこり微笑んだ彼女は、今日最も真剣な表情で言葉を紡いだ。
「ここに来てくれて、私と出会ってくれて、本当にありがとう」
 俺は無言でお辞儀をする。なんだかとても不思議な心境で、なんと言ったらいいのかもわからない。高華さんは、「また次の部活でね」と明るく笑って帰っていった。
 初めて演劇部の見学に行ったとき、高華さんに声をかけられたのを思い出す。容姿端麗だとかなんとか言われているけど、俺が真っ先に浮かんだのは、「大人」だった。
 言葉の端々から、その姿からそれを感じた。一期一会の精神を今知って、よりそのイメージは固いものになった。だから高華さんは、完璧、憧れそのものだった。演劇では言葉の使い方も、呼吸の仕方も、真似しなきゃいけない部分が何個もあった。そんな彼女は、「君に変えられた」と言った。それが本当かどうかはわからないし、にわかに信じがたいことだが、憧れだった人に少なからず認めてもらえたということは素直に嬉しかった。
 そして何より、彼女が演劇にかける思いの強さには、ひどく心を打たれた。自分が誰かに劣っていると思っていながらも、それをバネにして伸びるほど、最高の演劇にしたいという想いの強さが表れている。それは一つの想いでできた単純なものではなく、苦しみや嫉妬、葛藤などの複雑な想いを含んでいる。そんな辛く苦しいことは、きっと誰もができることではない。
 他の役者たちも、似たような想いを持っているのかもしれない。そんな想いをしてでも完成させたいという執念があるのかもしれない。
 関係者の数だけ複雑に感情が混ざり合ったこの演劇を、なんとしても成功させたい。そう強く思う、夏休み最終日だった。

 九月に入っても、厳しい暑さは相変わらず続いていく。本当に嫌になる。
 新学期初日から、学校中が文化祭の話で持ち切りだった。出し物を用意しているクラスは、どんどんと掲示板にポスターを貼っていく。俺のクラスが何をやるのか、俺を含めた演劇関係者はよくわかっていない。見ることができるかわからないが、当日がとても楽しみだ。
 ほぼ毎日のように部活があり、授業も始まって右左に振り回されていると、少しばかり暑さの和らぎを感じてくる。そして、いつの間にか文化祭前日となっている。二週間というのがこんなに短いものだと思っておらず、少し焦りが生まれている。
 二日間開催される文化祭。例年とは異なり、この劇が公演されるのは初日の一回だけ。全国大会常連校の演劇ともあって、観にくる人はかなり多いだろう。そこに本来は部員でない俺が混じって演じるというのは、やっぱり少し怖い。一度ミスしただけでなんて言われるかわからなし、公演が一回しかないという事実が、俺にのしかかっていく。
 練習をいつもより早く終えて、高橋さんが集合をかける。関係者みんなで円を作ると、いつもより低い真剣な声で俺たちを奮い立たせる。
「明日はいよいよ本番です。苦しいことも、揉めたことも多々ありましたが、だからこそ、最高のものにしましょう」
 一拍空けて、大きく息を吸い込んだ高橋さんは、俺を驚かせる。
「絶対成功させるぞー!」
 聞いたことのない雄叫びの後、「おー!」という掛け声が、体育館に響き渡る。高橋さんの知らなかった一面に唖然とする俺は、結局この輪に入り込めなかった。そしてそのまま解散が宣言され、各々友達と話したりして帰っていく。これに慣れているような人ばかりで、「えー……」と言葉を漏らしてしまう。
「暁斗くーん! 公園行って気合い入れに行こ!」
 鈴さんが俺の名前を呼びながら傍までやってきて、目を輝かせながら誘う。断る理由もなかったので、こくこくと頷く。

 彼女が不安や緊張といった感情を持ち合わせていないことは、公園に向かう間の様子に表れていた。校門を出たときには鼻歌を歌っていたし、ところどころスキップをしていたり、雑談では言葉の端々に気持ちが(たかぶ)っているのが伝わる。
 夏にはより緑が深くなった木々は、少しずつ落ち葉になろうとしている。もはや秋が消えたと言われているこのご時世、紅葉が見られるのはまだずっと先になってしまいそうだ。
 いつもの場所に俺たちは腰掛ける。まだまだ暑く日差しも強いので、日陰に入るだけで一気に涼しくなる。まだまだ夏が続きそうなことを実感させられて少し気分が下がる。
「鈴さん、何かいいことでもあった?」
 ふわふわとしたオーラを放ち、顔が砕けている彼女を見て聞いてみる。
「そりゃもちろん。だって明日は、やっと暁斗くんと演技ができるんだもん」
 わかりきったことを聞くなという表情で、満面の笑みで答える。曇りのない煌々と光る笑顔に見惚れてしまう。
「てか私だけ役と名前が一緒なんだよね。なんか特別感すごい」
 俺も最初はびっくりしたのだが、鈴さんと彼女の演じる役の名前が同じなのだ。苗字は流石に一緒ではなかったが、こんな偶然あるんだなと、当時は彼女と面白がっていた覚えがある。そしてそれが原因で、どうやって演じたらいいのかわからなくなるときもあった。役としての彼女ではなく、桑原鈴という存在がちらついてしまうからだ。
「暁斗くん」
 さっきとはかなり声色が変わって、真剣な話をするかのような落ち着いた様子で名前を呼ばれる。彼女を捉えると、真っ直ぐな目で見つめ返される。なんか気恥ずかしくて逸らしてしまいたかったが、そんなことをしてはいけないというような雰囲気が、俺を静止させる。
「ここまで一緒にやってくれてありがとう。明日、最高の演技にしようね!」
 ぱあっと花が咲いたような笑みを浮かべる彼女の言葉に、声に惹かれる。そして同時に、ここまでやっていてよかったと思った。
 どう答えたら良いのか迷ってしまったが、俺もしっかりと気持ちを伝えることが最適解だと判断した。
「こちらこそありがとう。ここまで来れたのは君のおかげ。練習の成果、出し切るよ」
 ぎこちなかったかもしれないが、できる限りの笑顔で伝える。それを聞いて満足そうにした彼女は、「明日のために早めに解散! じゃあね!」と言って帰っていった。俺もできるだけ最後まで内容を確認したかったので、少し駆け足で家へと向かった。
 楽しみな反面、久しぶりにめちゃくちゃ緊張していた俺は、なかなか寝付けそうになかった。どうせこうなるだろうと思い早めにベッドに入っておいてよかった。明日寝不足で体調が悪くて出席できないなんてことになったらたまったものじゃない。
 公演が、鈴さんと演技できることが、本当に楽しみで仕方ない夜だった。

2. いざ、開演

 登校すると、学校中が興奮に包まれていた。教室に入れば、初めての文化祭で楽しみな気持ちを抑えられない人が目立っていた。今まで以上に賑わっていることがわかる。
「おはよー。暁斗くんガッチガチじゃん」
 いつもの鈴さんたち四人が俺の元へとやってくる。対照的に余裕そうな鈴さんをみると、途端に羨ましく思えてくる。俺は朝から緊張と不安で潰れてしまいそうだ。
「おはよう。……相変わらず平然としてるね」
「うん! 楽しみでしかない! 失敗するわけないしね!」
 そう言って胸を張り、誇らしげにする彼女を見て、ずっとこうしてるわけにもいかないなと自分を律する。
 北上さんたちにも激励を受けて、ホームルームが始まる。今日はいつもよりかなり早く終わり、体育館にて開会式が行われる。
 冷房がついているとはいえ、まだ暑さが残る体育館。小学校、中学校とそうだったが、ここで話をする校長や来賓の方の話は覚えていたことがない。多分ちゃんと聞いてない。今回は演劇のことばかりが頭を埋め尽くし、気づいたらもう終わっていた。
 ここで各自解散となり、教室に戻って準備を始める人や、早速友達と固まってどこから回ろうか悩んでる人もいる。そんな中、演劇部は最終打ち合わせや舞台の準備に向かうことになっている。
 舞台裏へ向かおうとしたとき、不意に肩をポンポンと叩かれる。
「頑張れよ! 絶対に観に行くから」
 振り向くと自然に目が合い、そこには木村の姿があった。期待に満ちたその笑みは、心の底から楽しみにしていることを証明してくれている。
「うん。最高の演技で迎えるよ」
 それを聞いて満足そうにした彼は、実行委員としての最後の仕事を果たすために教室へと戻っていった。心の中から、「頑張れ」と走って行く彼の背中に伝える。
 彼の姿が見えなくなったとき、俺は自分の両頬をパチンと叩いて気合を入れる。今まで頑張ってきた。きっと大丈夫、上手くいく。
 百八十度向きを変え、今度こそ舞台裏へ駆け出す。複雑に入り混じった感情は、説明ができないほどだった。

 壁にもたれながら、ドクドクと血液がものすごいスピードで体を巡るのがわかる。心臓の音がやけにうるさい。落ち着かなきゃと頭ではわかっていても、体は言うことを聞かない。高華さんを含めた先輩方を見てみると、全国大会に出場して慣れてしまったのか、かなり落ち着いている。それが本当にすごくて、でも同時に焦りが生まれる。
 もう一度観客の方を見てみる。わかってはいたけどものすごく多い。実際にそれを前にすると、どうしても心が乱れてしまう。しかしそれは俺だけではないみたいで、少なからす緊張している人はいる。
 それは俺の隣にも。
 鈴さんは体が震えるあまり、度々歯をガタガタと震わせている。あんなに余裕そうにしていたのは強がっていただけだったのだと今になって気づく。手足も震えていて、目の焦点が定まっていない。
 開演十分前を告げるアナウンスがかかると、脈はより速くなる。彼女もその例に漏れず、表情がだんだんと険しいものになってくる。これでは流石にまずいので、どうにかして彼女を落ち着かせる方法を考える。自分の心配をした方がいいのは確かだが、彼女は俺よりも取り乱している。このままにして最高の演技ができなくなるのは勿体無い。
 少し迷ったが、俺の右手のそばにあった彼女の手をそっと握る。振り解いても構わないというように。突然のことに彼女は、ビクンと大きく体を震わせ、驚きや混乱が入り混じった表情をしてこちらに振り向く。彼女と目が合ったとき、軽蔑されないか不安だったが、彼女はそのまま手を優しく握り返してくれた。声にできない分、「ありがとう」と伝えているようだった。
 互いの瞳を見ながら、沈黙を貫く。言葉にはしていないが、きっと想いは伝わっていている。握る力が増していくに連れて、少しずつ落ち着いてくる。
 開演五分前。俺たちはたった一言のみ交わす。
「大丈夫。一緒に、最高の演劇にしよう」
 その一言で充分。これ以上いらない。
 ゆっくりと離れていった彼女の手の温もりが、まだ僅かに残っている。
 いざ、開演。

3. 演技じゃない、本当の想い


 開演のアナウンスとともに、照明が少しずつ消えていき、体育館は静寂と暗闇に包まれる。下ろされた幕の裏側では、教室を模した小道具たちがセットされている。俺が初めて部員の方々の前で演技をした、あのシーン。
 俺は用意された椅子に座り、机に突っ伏す。この状態からのスタートでいいのかとかなり悩んだが、一番特徴を掴みやすそうだったのでこうした。
 少しずつ幕が上がっていくのが、音を聞いてわかる。静かな舞台上、ほぼ暗闇に近い今、心臓の音がいつもより大きく聞こえる。まるで耳元にあるかのように。緊張に飲まれた俺に、僅かな光が届く。ちょうど舞台の照明が灯されたのだ。そしてこれは、演劇の開始を意味する。
『お、おはよ』
 田辺さんのセリフから、俺に挨拶するところから始まる。どこか気まずそうな彼の声に対し、顔をあげて平然を装いながら挨拶を返すも、どこかぎこちない笑顔を見せるように演技する。
 短い沈黙の後、とぼとぼと鈴さんと高華さんが現れる。どこか浮かない表情を浮かべる四人。場の雰囲気は少し悪い方へと向かっているのを肌で感じる。でもこれは成功で、こうなることを目指し演じている。
『おっはよー! どうした、なんか元気ないぞー?』
 高華さんの空元気のようなセリフで、より観客の違和感を増大させる。棒読みのような演技も、それを後押しする。
 彼女には誰も答えず、ただ下を見つめ続けている。沈黙を破ったのは鈴さんだった。
『回避、できないみたい、だね。あの、隕石』
 言葉が途切れ、心が少し乱れていることを強調させる。突然の隕石衝突という告白が、観客を唖然とさせているはずだ。
『あと一週間なんて、信じられない……』
 目に少しの涙を浮かべて、声を震わせながら鈴さんは言う。彼女と高華さんは真逆の役。意地でも明るい方に持っていこうとした高華さんのセリフが、より鈴さんの性格を際立たせ、現実の辛さに重みを加える。
 開幕から急展開すぎる物語。賑やかであるはずなのに、喧騒もなく、ましては四人しかいない、静まり返った教室。今回はそんな、隕石衝突までの一週間を描く素敵な原作小説を、六十分以内にまとめている。人によっては物足りないと感じてしまうだろう。だがこうして、音を少なくして序盤から臨場感を作り、彼らの心境をより演劇に反映させる。
 田辺さんは自嘲するように、鼻で笑って言う。
『もう、今日で最後なんだな。この教室に来るのも』
 俺は苦笑いしながら、ぎこちなく答える。
『臨時休校だしね。こんな終わり方って、あるんだね』
 それを聞くと、さらに口角を上げて微笑み、背中を向け早足で舞台裏へと去っていく。その間、制服の袖で涙をぬぐう姿を見せる彼は、何度見ても心に響く。
 高華さんも続けて去っていき、俺と鈴さんだけが舞台上に残される。
 お互い何も喋らず、ただ唇を噛み締めている。たちまち鈴さんが、涙を堪えるように言葉を紡いでいく。
『私たち、まだ付き合った、ばっかりだよね。もっと、ずっと一緒に、居たかったなぁ』
 何も言えない俺を見つめながら、一滴の涙を零すとともに、走り去っていく。一人取り残された俺も、去ろうと席を立ったが、足から力が抜け落ちたように、膝から崩れ落ちる。
 そして、嗚咽を我慢できずに、その場で泣き始める。静まり返った体育館には、俺の嗚咽のみが響く。

 舞台上の照明が消え、体育館はまた暗闇に包まれる。その間に、場面を変えるために小道具を移動させたりなどの細かな準備をする。ここはわずか数秒で済ませなければならないので、舞台裏は大忙し。俺も急いで立ち上がり、舞台裏にはけていく。
 次のシーンは高華さんと田辺さんのみのため、そのまま待機する。背中をツンツンとされ振り返ると、鈴さんが満足そうな顔をして、「良い演技だったよ」と囁く。俺はただ「ありがとう」と返した。この普通のやりとりが緊張に支配された心を軽くしてくれる。
 話は順調に進み、訪れたのはオーディションのシーン。最初は俺と高華さん、田辺さんの三人のみの出演。約束された死を前に、友人、及び恋人の関係について言い争いになってしまう。普段はあまり意見を通さない俺も、ここでは別人のように変貌する。
『お前は、これでいいのかよ! 最後ぐらい、一緒に居てやれよ!』
『そうだよ。鈴と、本当に別れたいわけじゃないんでしょ?』
 これより前の場面で、ほぼ喧嘩別れをした俺と鈴さん。それを知って飛ぶように駆けつけてきた二人は、怒ったような声色で問いただす。その言葉に俺は、悩み溜め込んでいた想いを爆発させる。
『こうするしかないんだよ! 鈴とも、お前たちとも離れるなんて絶対嫌だ! だからこうしないと……、余計悲しくなるだろ?』
 怒りと、諦めと、悲しみと、複雑に重なった感情を表現しきるのは本当に難しかった。鈴さんと練習したときにいろいろと教えてもらったが、それを用いても定まりにくかった。オーディションを終えても熟考を重ねたこの演技は、なかなかのものではないだろうか。
『一緒に最期を過ごす勇気がない……。だから、一人で死なせて』
 込み上げてくる涙を見られないように、すぐさま体の向きを変え、去ろうとする。
『待って!』
 突如として姿を現した鈴さんは、背後から俺に抱きつく。身長差によって背中に顔を(うず)める形になった彼女は、啜り泣きながら懸命に言葉を繋いでいく。
『やっぱり、君と一緒がいい。……お願いだから、離れないで……。最期まで、一緒に居て』
 俺はその場で立ちつくし、少し悩んだように見せた後、無理やり彼女の手を振り解く。その間彼女は、『嫌だ、嫌だ』と駄々をこねる子供のように抵抗する。
 やっとのことで離れることができた俺は、彼女に向き直り、そのまま優しく抱きしめる。涙ぐみながらも、酷く傷つけてしまったことに精一杯の謝罪を伝えていく。俺たち二人をただ黙って見守っていた高華さんと田辺さんは、満足そうな、寂しそうな顔をして姿を消してしまった。
 二人を残したまま、照明も次第に消えていく。そして、隕石衝突当日を迎える。

 事前に予告していた通り、突如として体育館には警告音が鳴り響く。いわゆる「Jアラート」を、音響担当の方たちが少しアレンジを加えたらしい。でもそれは、緊迫感や恐怖心を生む本物と、同等のものを感じさせられた。
 このシーンがこの演劇のラスト。隕石衝突までの僅か五分を描く。
『もう、終わっちゃうね』
 時間が止まってほしいと願う俺たちを差し置いて、刻一刻と進み続ける。
『君と生きれて、本当に良かった』
 俺の精一杯の笑顔と言葉で、お互いに向き合う。瞳の奥を、一心に見つめ合う。涙で視界がぼやけても、ただ一点を見つめ続ける。
『生まれ変わっても、一緒がいいな』
 一雫の涙と共に、ぽつりと呟く。実際に涙を流しても観えるわけないと思うかもしれないが、感情移入をしてより正確な演技に近づけるらしい。
『鈴……』
 最期の俺のセリフで、この演劇は幕を閉じる。
 今までの練習もそうだが、彼女と過ごした日々がありありと浮かんでくる。怒った顔も、泣いた顔も、輝く綺麗な笑顔も、どれも愛おしい。
 彼女に出会って生まれ、関わることで大きくなり、何度も蓋をしたこの感情。演技を通して、痛みを覚えるほど苦しかった感情。
 変わっても、変わらなくても、ずっと好きでいてくれた彼女に、今だからこそ、蓋を開けて伝えられる。
『僕は……』
 違う。『僕』じゃない。
「俺は、鈴が、」
 僕なんかじゃない。役でもない。決して、演技なんかじゃない。
 これは、本当の想い。
 弱くて、卑劣で、最低な、俺の想い。
 蓋をしても、溢れかえってしまった想い。
「大好きです」
 紡がれた言葉共に、轟音とカメラのフラッシュを用いた閃光が炸裂し、体育館には瞬く間に暗闇と静寂が戻る。
 一瞬だけ見えた鈴の表情は、もう演技なんか忘れていた。口をポカンと開けて、信じられないというような目をして立っていた。

4. 身近な人たち
 体育館全体の照明がついて、主演キャスト、照明担当者、音響担当者などの関わる全ての人が舞台に集合する。舞台監督を務めた高橋さんの一礼に合わせて、部員全員で深々と頭を下げる。
「本日はご足労いただきありがとうございます。演劇、いかがでしたか? 我々一同、六月頃から精一杯の準備を行なってきました。皆様の心に残るような作品になっていれば幸いです」
 体育館に敷き詰めるられた観客の中には、ハンカチで目を押さえている人もいる。演技が上手くできていたのかな、と思い一安心する。
「事前にお知らせしていましたが、今回の主役は部員ではない生徒が担っています。プレッシャーに耐え最後までやり切った、一年生の鷹波暁斗くんに、大きな拍手をお願いします」
 急に名前を言われて驚いたが、なるべく堂々としてもう一度頭を下げる。どっと湧き起こった拍手や歓声が嬉しい反面、少し恥ずかしさを覚えた。
「これで、演劇部による上演を終了とさせていただきます。ありがとうございました」
 再び起こった大きな拍手と共に、各々が解散していく。俺たち演劇部も、小道具などの片付けを始める。
 舞台を降りたところで、最後まで観ていたであろう木村に声をかけられた。
「お疲れー、暁斗。もう最っ高だったよー。演技力も高すぎるし」
「ありがとう。気に入ってもらえて良かった。てか、時間的に大丈夫? 教室の方に戻った方が……」
「うわ、やばっ! もう行くわ。とにかくお疲れ!」
 走りながら手を振る彼を見送り、運ぶ予定だった荷物に手を伸ばす。
「暁斗」
 半年ぶり、本当に久しぶりで、一瞬誰かわからなかったが、忘れているわけない。
 振り向いた目の前にいたのは、単身赴任中のはずの父だった。どこか少し老けたように見える彼もまた、懐かしむような、どこか泣きそうな顔をしていた。すぐ横にいる母も、ハンカチを右手に握っている。
「父さん、母さん、どうして……」
 父にも観てもらえたということは嬉しいことなのだが、素直に喜ぶことはできない。演劇のことは、一度も話したことはなかったから。
「最高の演技だったよ。本当に」
 父の言葉に、母はただ頷くばかり。
「あ、ありがとう。……でもどうして来れたの? 伝えてなかったはずだけど」
 どこか迷うように、父と母は顔を見合う。話さない方がいいかを吟味するように。
 今度は父ではなく、母の口が動く。
「暁斗が、学校に行かなかった時期が少しだけあったでしょ? あの時扉を開けちゃったんだけど、この演劇の台本が床に投げ捨てられてたのを見たの。気になって仕事の帰りに高校のサイトを見てたら、学校帰りの女子生徒に声をかけられたの」
 その生徒曰く、母は社員証をぶら下げていたため、それを見て声をかけたらしい。
「その子がとても真剣そうな顔で、『鷹波暁斗くんのお母様ですか』って聞いてきたの。それがわかったら、演劇のことも、佐野くんとの一件も教えてくれて……。そのあとは焦るような様子で、暁斗を一度だけでいいから学校に行かせてほしいって」
 お母様ですか? なんて堅くなりすぎている彼女の姿が頭に浮かぶと、ちょっと可笑しくて笑ってしまいそうになる。
 きっとこれは鈴だ。焦っていたのは、このままではオーディションを辞退することになると直感したからだろう。実際にその後俺は、彼女の懸命な説得で復帰することになるわけだし。
 あの時の母は、全部知っていたのか。無理に干渉しないでいてくれたのも、それを知ったからこそだったのだろう。久々に登校した日も、弁当を作り終わった時に変なことを言っていたを思い出す。至れり尽くせりだったことに、そしてそれに気づけなかったことに、少しばかり罪悪感を感じた。
「すまなかったな、暁斗。辛い思いをしていたのに気づけなくて、遠くに行ってしまって」
 顔を俯かせた父を見て、すぐさま言葉が出ていく。
「父さんは悪くない。弱かった俺が」
 俺を黙らせるように、父は俺を強く抱擁する。最後に抱きしめられたのは小学校一年生ぐらいだっけ。もっと前だっけ。
「弱いなんか言うな。お前は強くないかもしれないけど、決して弱いわけじゃない。お前は……、立派な役者だよ。……俺のっ、自慢の息子だ」
 最後の一言は嗚咽を堪えていて、より強く俺の心に響いた。大人が泣くのも、自分がこんなに大切にされているのも、今まで全く知らなかった。気づこうとしなかったの方が正しいのかもしれない。
 ごめんなさい。そのたった一言を、何度も父に伝えた。心のどこかで、父に対して嫌悪感を抱いていたから。辛い自分を置いていって、何もしてくれないなんて、愛がなさすぎると思っていたから。でも実際は、どんなに遠くにいても見守ってくれていた。わざわざ遠いところから、ここに来てくれた。不器用な父に嫌悪感を抱いていた俺だが、心のどこかでは父のことが好きだったのかもしれない。じゃなかったら、今涙なんて出ていないはずだ。
 母と父からの労いの言葉をもらった俺は、涙をハンカチで拭き取る。擦りすぎると後で何か言われそうなので、押し当てるだけにしておく。
 片付けを終えてどうしようかと悩んでいると、香織さんたちにバシッと背中を叩かれる。想像以上の痛みが遅れてやってきて、俺はその場にうずくまる。「え、え!? ご、ごめんてば」と言って慌てる様子から、多分そこまで強い力ではなかったのだろう。単純に俺が貧弱なのかもしれない。
 やっとのことで立ち直った俺に、労いの言葉をくれる。
「めっちゃ良かったじゃん。取られたのは心苦しいけどな」
「と、取られた?」
「なーにとぼけた顔してんだよ。私らだったらわかるぞ、あれは告白だってことぐらい」
 ポンッと頭を叩かれて、気づかれてしまったことが恥ずかしくなる。
「で、でも、成功したかはわからないよ?」
「失敗するわけねぇだろ。……絶対、大切にしろよ」
 悔しさを噛み締めるようにな表情で、そう告げる。
「うん。任せて」
 精一杯の笑顔を見た彼女らは、安心したように肩の力を抜いてみせる。三人には本当にお世話になった。恩を仇で返すわけにはいかない。

 片付けを終えると、演劇部の活動部屋で行われる会議に出席するように言われた。文化祭の最中に呼び出されるなんて思ってなくて、良くないことなのだろうかと不安が頭をよぎる。
 扉の前で立ち止まり深呼吸する。不安な気持ちを抱えて、扉を三度ノックして扉を開ける。
 そこには主要キャスト五名と上田先生、高橋さんの姿があった。予想していた雰囲気と違って、そこまで厳しい表情はしていなかった。
 集められた理由がわかっていない俺に高橋さんは告げる。
「演劇部は例年、文化祭の演劇で大会に臨むんだ。だから今回の演劇も、夏の全国大会が最終目標だったんだ」
 知らなかった事実に驚いているのは俺だけみたいで、他の人たちは当たり前だというような表情をしている。
 言いたいことはわかる。だからこの後の言葉も予想できる。
「このまま演劇部に入って、主演として出ないか?」
 突然の勧誘。もちろん「出たい」と言いたいのだが、やはり不安はある。最初は部外者だった人間が、このまま継続していいのか……。
 今までの俺ならば、ここでずっと迷い続けているに違いない。好きなこと、やりたいことでも、きっと隠していただろう。
 だが今は違う。
 演劇を通して、彼らとの演劇を通して、俺は決めたんだ。
「ぜひ出させてください。優勝、目指しましょう」
 それを聞いた彼らは、満足そうに表情を崩している。
 俺は最低にして、最高の「演技」をするんだ。
 たとえ本当の自分を嫌われても。
 人が離れていってしまっても。
 俺を好きでいてくれる人を信じて、俺は進むんだ。
 だって俺は、「優しい役」と言われた、立派な役者なのだから。

5. 大切な君へ

 文化祭初日を終えて、俺と鈴はあの公園を訪れている。なかなか話せるタイミングがなくてどうしようかと悩んでいたが、彼女の方からメッセージで誘ってくれた。
 今日は向かい合ってではなく、隣に座っている。あまりない光景に少しドキドキする。それは彼女も同じみたいで、お互い目線が合わない。
 長い沈黙を破ったのは鈴だったのだが、それは演劇のことではなかった。
「本当に、私で、いいの? 私が先に告白まがいなことしちゃったんだけどさ……」
 相変わらず目線は合わないままだが、彼女の顔はものすごく赤く染まっている。
「俺は、本気だよ」
 彼女の瞳をしっかり捉えて伝える。夏に吹く風は熱いのに、とても涼しく、なんなら冷たく感じる。俺も人のことを言えないくらい顔が赤いのだろう。早く逸らしてしまいたい。でもそれは許されないような気がして、なんとか我慢する。
「で、でも私めんどくさいよ? だってほら、まだやっぱり嫌がらせとかされてるから、せっかく抜け出した君を巻き込むのは申し訳ないし、すぐ嫉妬すると思うし、それに、それに……」
 あたふたとする鈴は、呼吸を忘れているかのように矢継ぎ早に言葉を並べていく。そんな彼女が可笑しくて、愛おしくて、つい笑ってしまう。
「そんなの、関係ないよ。君が、好きだから」
 恥ずかしさも忘れて、しっかりと伝える。この自分勝手な俺の気持ちを受け止めて欲しいから。
「ずるいよ……、バカ……」
 嬉しいのか、悔しいのか、目が少しずつ潤んでいく彼女。そしてそのまま、俺の胸元に抱きついてくる。
「私も、大好きだよ。暁斗くん」
 その言葉を聞いた俺は、彼女と出会えた奇跡を噛み締める。
 大嫌いだった自分を、変えてくれた人。
 でも、本当の自分も好きでいてくれる人。
 そんな人との、今までの思い出が次々と蘇る。
 演劇が大好きで、部活の日はいつも目を輝かせる君。
 俺や他の人ばかり気にかけて、自分のことは後回しにしてしまう君。
 なかなか「苦しい」、「辛い」を言わない君。
 本当はものすごく緊張していても強がる君。
 頭が良さそうなのに、どこか抜けてる君。
 俺のことを、いとも簡単に変えてしまった君。
 はにかんだように笑って見せる君。
 花の咲くような、煌々と輝く綺麗な笑顔の君。
 その全てが愛おしくて、大好きで、絶対に手放したくない。
 なんとしても、守り続けていたい。
 ずっと、そばで見続けていたい。
 演技で埋めていた日々を、君は「優しい役」と言ってくれた。
 でも、今ならわかる。
 君と共に過ごしたあの日々——苦しみ、泣いて、笑い合ったあの日々は、「演技」なんかじゃない。
 誰にも、「演技」だなんて言わせない。
「絶対に、離さない」
 思ったことをつい口にしてしまうと、お互いの抱きしめる力は、より強くなった。