君と笑い合ったあの日々を、「演技」だなんて言わせない

1. 優しい役

 衝撃的な事実を知らされた次の日。オーディション開始の一週間前だ。火曜、水曜、金曜の部活動の時間を使って三日間にわたり行われる。俺は火曜日に受けることを今日、知らされた。「もっとハードな練習にしないとね!」という鈴さんの言葉と共に。
「今日は暁斗くんに全部費やす!」
 彼女はそう言ってなかなか隣から離れてくれない。これから毎日一緒に体育館に向かうことになるのだろうか。
「あの、待たなくていいよ? 先に練習してた方がいいんじゃ」
「いいから待つ! さ、早く!」
 俺の言葉を遮って急かす彼女は、今日は一段と興奮している。何か良いことでもあったのかな。
 不意にバタンと音がする。音のした方を見ると、台本を落としていたことに気づく。
 拾い上げようとしゃがんだ時、別の手が台本を持っていき、俺の手は空を掴む。きっと鈴さんだと思い立ち上がり、「ありがとう」と伝えようとした時、俺は終わりを悟った。
 一気に血の気が引いていく。台本を拾ったのは鈴さんじゃない。
 俺の目線の先にいたのは、台本を見てにやついている一輝だった。
「暁斗、お前もオーディション受けんの?」
 嘲笑気味にそう言い放つ。そして付箋やメモで染められた台本をぺらぺらとめくっていく。
 待て、「も」って何だ?
 まさか……。
「俺も受けるんだよねー。あ、そういえば事情があって説明会に参加できない人が何人かいたけど、あれ暁斗か」
 俺の勘は、運悪く当たってしまった。
「ははっ、何これ? 『泣いてしまいそうな表情で』だって」
 台本に加えたメモを読み上げ、大きく嘲笑う。あまりに大きな声を出すため、いつも一輝といる人たちが集まっていく。クラスにいた他の人たちからも、なんだなんだと冷たい視線が集まる。
 心臓と呼吸の音が、マイクを通しているかのように大きく響く。衝撃的で、恥ずかしくて、悲しくて、悔しくて、よくわからなくなる。ただ呆然と立ち尽くし、顔はとても酷いことだろう。
「か、返してよ」
 声は掠れ、ほぼ出ていなかった。いくらやっても、声なんて出ない。
 ただ、俺が手を伸ばして取り戻そうとする仕草を見てわかったのか、反対側を向いて奪わせまいとする。どうしよう、と羞恥心やらなんやらで消えてしまいたかった。
「いい加減にして! 早く返しなさいよ!」
 突然、教室に怒号が響く。一瞬にして静寂が生まれる。声の主は鈴さんだ。
 彼女の言葉が、日々のイライラが募った一輝の癇に障ったのか、鬼のような形相でこちらに振り向く。
「うっせぇなぁ! 良い子ぶってんじゃなえよ気持ちわりぃなぁ!」
 そう言い放って持っていた台本をこちらに向かって投げ捨てる。鈴さんに当たってしまうのが怖かったが、手前で減速しバタンという音と共に落下する。一輝は仲間たちとへらへら笑いながら教室を後にしていった。
 俺は床に落ちたくしゃくしゃの台本を見つめて動けなくなる。
「鈴! 大丈夫か!?」
 遠くから見ていたであろう北上さんたちは、一心に鈴さんの方へと向かう。周りのクラスメイトたちの囁き声が聞こえる。ところどころで俺が演劇をやることを冷やかすような言葉が聞こえてきて、より傷口が開いていく。
 少しぼーっとしていた俺は、急いで台本を鞄へとしまう。
「暁斗、今日はもう帰った方がいい。呼吸が荒いし、酷い顔してる」
 北上さんは、真剣な眼差しで告げる。「邪魔だから」というわけではなく、本当に心配してくれているのだろう。それは日常生活からなんとなくわかる。
 鈴さんに目をやると、「私は大丈夫」というように無理やり口角を上げていた。でもそれは嘘だろう。彼女の目は今、ものすごく泣きそうに目が潤んでいる。
 できれば残りたかったが、熱心に何度も言われてしまったので、素直に従うことにした。それにあの場にいたところで何かできるとは思えなかった。
 でもなぜだろう。涙って、こんなにも出ないものだったかな。

 ほぼ無心で家に辿り着いた。学校から家までのことが一切残っていない。制服はびしょ濡れで、傘を持ってさしていなかったことに気づく。きっとゾンビみたいに帰って来たのだろう。
 ささっと着替えた俺は、ベッドに倒れ込んだ。もう動く気力さえ残っていなかった。
 全部、バレた。ここまでいろんな人にサポートしてもらったのにも関わらず、全部が明るみになった。
 演劇をやるということが周知された時、あんな反応をされることはずっと前からわかっていた。だから自分からやることはできなかったし、誘われた後も少し乗り気ではなかった。
 ずっと忘れていたんだ。クラスで話せる人が増えて、高華さんや高橋さん、演劇部の方々に出会い支えられて、鈴さんと実際に演劇を観て、たくさんの練習を重ねて……。ずっと、忘れていた。本当の俺はずっと笑顔で、八方美人とも言える最低な役者だったのだということを。
 変われたと思っていたのに、実際は変わったように見えただけ。本質はずっと変わらぬまま。想いを閉じ込め、隠し、打ち消し、得意の演技で悟られないようにする。得意の演技でみんなに合わせる。どれだけ不器用でも顔色を伺うことは得意で、嘘をつくって逃げることも、演技で欺くことも得意だ。
 そうだ。俺はもう、立派な役者だったんだ。それも卑劣で、最悪な。そんな俺には、正しい演技をする資格はない。因果応報、酷いことをしたのに、良い思いをできるなんてありえない。
 オーディションは諦めよう。鈴さんたちには申し訳ないが仕方ない。もう学校に行けるかも怪しいんだ。同情されなくても、罵られても構わない。
 もう、いいんだ。

 それからの日々、俺は魂が抜けたようになっていた。自室に篭り、カーテンも閉め、刺激を受けずにぼーっとしていた。あの悪夢のような日から降り続いていた雨は止み、今日は快晴。カーテンの隙間から漏れた光がそれを伝える。俺の心境とこんなに真逆なことが少し腹立たしかった。
 こんなにずたずたになっても、涙は一滴も出ない。あんなにやりたかった演劇を手放したのに、出ない。生きる価値のなさ、自分の醜さを思い知らされたのに、出ない。ただただ消えたいという思いが増大していくだけ。
 でもなぜか、食欲も、睡眠欲もある。静寂に包まれた部屋にお腹の音は鳴り響くし、夜になれば睡魔が襲ってくる。消えたいと願うのに、体は生きることを欲している。そんな自分にまた腹が立つ。
 母は最初こそ心配してくれていたが、今は何もしないでいてくれている。無理に復帰させるのはよくないと判断したのだろう。俺はそれがとてもありがたかった。
 いつも通りくる空腹に苛立ちを抑えながら部屋の扉を開け、台所へと向かう。冷蔵庫には、おにぎりが二個、皿に乗っていた。それを取り出し、テーブルに持っていく。昼食はいつも用意してくれている母に感謝したいのだが、その優しさがまた、傷口に塩をぬる。
 被されたラップに添えてあった付箋のメモを見る。『がんばったね!』と、間違いなく母の字で書かれていた。俺がこうしてだめになっていることを否定しないでいてくれる母に、誠心誠意「いただきます」を伝え、おにぎりを一口かじる。冷えているのに、なんでこんなに心に温かみを与えてくるのだろうか。
 食事を終えた時、流石に少し動いた方がいい気がしたので、着替えて外に出る。容赦なく照りつける日差しは、一日ぶりに外に出た人間には厳しい。数分しか歩いていないのに息が上がってくる。たった数日でこんなに変わってしまうのか……。
 へとへとになりながらも、流れに身を任せて歩いて行く。すると、見慣れた大きな木々が見えてくる。近づくことすら少し躊躇ったが、休憩もしたいし入ることにした。
 いつもの屋根付きのスペースに腰掛け周囲を見渡す。すると今までの日々が蘇ってくる。
 部活がない日はほぼ毎回集まって作戦立ててたっけ。雑談だけして終わった日もあったな。午後から雨が降り出して雨宿りしたり、虹が見えてはしゃいだり……。
 演劇はやらないと決めたのに、鈴さんは今頃どうしているだろうと考えてしまう。彼女に誘われた日に生まれたであろうこの感情は一体なんのか。まるでもう一人の自分、全く逆の想いを持った自分がいるみたいだ。
「やっぱり、いた」
 聞き慣れた声に驚き振り向き立ち上がる。制服姿に鞄を肩からかけ、おそらく学校から帰る途中であろう鈴さんは、屋根の下まで来ていた。考え込んでいたのか全く気づかなかった。彼女は安心とも、悲しみとも、怒りともいえない表情を浮かべながら涙を堪え、歯を食いしばっている。
 でもなぜここにいるのか。今日は部活がないとはいえこんなに早く帰宅するなんておかしいのではないか。それとも意外と時間が経っていたのだろうか。
「なんで、連絡したのに、見てくれなかったの?」
 彼女の声は僅かに震えている。
 刺激から完全に離れるために、スマホの電源は切っている。今も勿論スマホは持っていない。
 無言のまま、何も言えずにいる俺にきつく問い詰める。
「すごく心配だったんだよ? 私だけじゃない、香織たちも」
 またしても何も言えない俺に、彼女は呟くように衝撃的な事実を明かす。
「私はこの二日間、演劇部の活動に参加してない」
 衝撃のあまり目を見開く。これには俺も黙っていられなくなり、勝手に口が開く。
「な、なんで」
「暁斗くんは? 演劇、どうするつもり?」
 俺の弱々しい質問は彼女の鋭い口調に遮られる。少し躊躇ったが、しっかりと決めたことを伝える。
「僕は、演劇はやめる。オーディションも諦めるよ」
 彼女は信じられないというように顔を歪ませ、でもそれはどこかで予想できていたという様子だった。
 お互い俯き黙り込むと、「……ない」と掠れた声が鼓膜を震わせる。しっかりと聞きたくて、彼女の顔を捉える。
「だったら私も、演劇をやめる!」
 涙を堪えきれなくなったのか、俺の目を一点に見つめ、嗚咽を漏らしながら言葉を絞り出す。
「それは違うでしょ。なんで君まで」
「あなたがいないなら私もやらない! 誰になんて言われても、絶対に!」
 俺の問いかけに間髪入れずに答える。
 大粒の涙を流しながら、言葉を紡いでいく。
「あなたがいたから……ここまで頑張れたんだよ。馬鹿にされても、上手くいかなくて思い悩んでも……。難しいことにも、新しいことにも懸命に励むあなたに私は……、元気をもらえたの」
 くしゃくしゃな顔で、途切れ途切れになりながらも最後まで話を諦めない。
「暁斗くんを見た時、演技をしてるのが丸わかりだった。でもそれはあまりにも上手で、周りは少しも気づいていなかった。でも私は、あなたのその『優しい役』が大好きだった。存在がすごく羨ましかった」
 いつボロが出たのだろう。『演技』をしていることまで把握されているではないか。
「僕は『優しい役』なんかじゃない。自分が嫌われたくないから、孤立したくないから、ただ人に合わせてただけ。ずるくて、卑怯で、何も羨ましがられる人間じゃない」
「違う。違う、違う、全然違う! 全然わかってない!」
 必死に否定する俺に、間にボール一つしか入らないくらいに距離を詰めながらそう言う。身長差で彼女は俺を見上げるようにしている。
 改めて近くで彼女の顔を見ると、泣き続けた目は赤く腫れている。
「暁斗くんは、いくつもある役の中から、わざわざ自己犠牲という役を選んだんだよ。いや、もしかしたらそうならざるを得なかったかもしれない。……とにかくあなたは、良くも悪くもいつも周りの様子を第一に考えてる。多くの人が、あなたに憧れてる」
「そんなの…うそ」
「嘘じゃない! 私がそうなんだもん! 暁斗くんの温かい演技が、本当に大好きだった。練習を一緒にやるのも、見るのも、すっごく大好きだった!」
 知らなかった彼女の想いを明かされ、視界はだんだんとぼやけていく。それでも彼女の目線は、一点に俺の瞳の奥を捉え続けている。
「あなたの演技が大好きで……、あなたに、勇気や、頑張る力をもらったの! 役に立てないとか、迷惑をかけてるなんて思わないで! すでにあなたは、多すぎるくらいのものを与えてるから!」
 沢山の涙と一緒に、彼女は懸命に訴えかけてくる。俺はもう耐えられず、雫が溢れ始める。足に力が入らず、その場で四つん這いになるように崩れ落ちた。さぞみっともない姿であろう俺に、目線を合わせるように彼女もしゃがむ。でももう、顔を上げて彼女の顔を捉える力もない。
「お願い……戻ってきて。演劇をやらないなんて言わないで。暁斗くんと一緒に、演技がしたい」
 懇願するかのような彼女の声。
 演技ではない、確かな涙を流しているという事実。
 いつぶりだろう。こんな風に、閉じ込めたものを外に吐き出せたのは。
 初めてだった。本当の自分を見抜かれて、それを好きだと言ってくれる人なんていないと思っていたのに。
 鈴さんは俺の真横に来てしゃがむと、「辛かったよね」とだけ言って背中を撫で始める。そんなことをされてたら余計に涙が止まらなくなるというのに。声なんか、抑えられずはずない。
「こんな僕にも、演劇ができますか……?」
 泣きながら、でもしっかりと伝えた。彼女の瞳を、しっかりと捉えて。俺はきっと酷い顔をしているだろう。それでも伝えなければならない、「演劇がやりたい」と。
「暁斗くんは、十分過ぎるぐらい頑張った。だからもう、あとは自分を信じるだけだよ」
 彼女はにっこりと優しく笑ってそう言ってくれた。「頑張れ」ではなく「頑張った」と言ってくれたことに、本当に全てが見透かされているのだなと改めて思った。人から「もっと頑張ろう」と言われるのはもううんざりだった。俺はもうこれだけ頑張っているのにといつも心の中で叫んでいた。
「演劇、やりたいです」
 涙ながらの嘘偽りない言葉を聞いた彼女は、満面の笑みを浮かべていた。

「少し落ち着いた?」
 向かいに座る鈴さんは優しく問いかける。俺は深呼吸して頷く。
 存分に泣いた後、俺たちはいつものように向かい合って座っている。俺が誘ったわけでも、彼女が誘ってわけでもなく、自然とこうしている。ここまで関係を築いてくれた演劇には感謝しかない。
「ごめんなさい。あの時、巻き込んでしまって……」
 ずっと抱えていた罪悪感をここで消してしまいたかった。そんなに簡単に消えるものではないのだが、せめて一度だけ謝りたかった。
「えっ、そんなの気にしないでよ。飛び込んで行った私が悪いし」
「でも、二度と経験したくなかったことを蘇らせちゃったでしょ? 元はと言えば、あれは僕の不注意で……」
「元凶はどう考えても佐野くんでしょ。あんな人、オーディションになんて絶対受からないんだから。あれで受かったら部長に抗議してやる」
 やや興奮気味に言葉を連ねる。珍しく怒りをあらわにする彼女を見て、俺はダメだとわかっていても、込み上げてくる笑いを抑えきれず吹き出してしまう。
「……なんで笑うの」
「だって、そんなに怒ってるなんて思わなくて」
 むすっとしていた彼女は、我に返ると頬に少しずつ赤みを帯びていく。
「……だって、暁斗くんがあんな風にされてるの見て、我慢できるわけないもん」
 そう言って目線をそらし、頬を膨らませる。そう思ってくれるのは嬉しいのだが、拗ねた幼い子供のような彼女が可愛くてまた笑ってしまう。
「笑わないでよー!」
「ご、ごめん」
 謝罪するものの、やっぱり抑えられない。
 お互いが落ち着き始めた頃、今度は彼女から口を開く。あの悪夢を思い出させるのが酷だと思ったのか、少し不安げだった。
「あの後、何があったのか、話したほうがいい……?」
「……できれば、知っておきたい」
 素直にそう答えると、事細かに説明してくれた。
 あの事件があった日は、鈴さんが部活に欠席したが、それ以外特に何もなかったらしい。ただ問題がその次の日からで、一輝に言われたような悪口や陰口が増えていったのだという。北上さんたちがサポートをしてくれたものの、その日も部活には行かず早めに帰宅したらしい。
 そして今日。遂にそれは嫌がらせという形にまであらわれてしまい、臨時で部活動があったものの体調不良で早退してきたのだという。
 それを聞いた俺は、余計に申し訳なくなってしまい何度も謝罪した。それでも彼女はそれを受け入れてくれない。
「とにかく、今はクラスの雰囲気がすごく悪い。だから無理に学校に行く必要はないよ」
「いや、ちゃんと行くよ。ここで引いたら、もっと行きづらくなる」
 確かにそんな雰囲気の中に三日ぶりに飛び込むのは気が引ける。でも矛先が少しずつ彼女に向かっているのは事実だし、このまま逃げればもう本当に学校には行けなくなる。親に学費は出してもらっているし、一応勉強して入って高校だ。一年生で退学なんてしたら、俺みたいな人間に将来はない。
 明日はどうなってしまうのだろうという漠然とした不安を抱えていた俺に、鈴さんは優しく微笑む。
「一緒に、乗り切ろう!」
 彼女のその溌剌(はつらつ)とした、爽やかな声に、俺は背中を押された。

2. 私たち、ほんと馬鹿だね

 アラームで目を覚ますのが、なんだか久しぶりに感じる。いつも通りの時間に起きれるか不安な部分もあったが、特に問題はなさそうだ。
 部屋を出て階段を降りて行くと、台所が明るくなっていた。覗いてみると、母が卵焼きを焼きながら弁当箱にご飯を詰めていた。母がまだ仕事に行っていないことは珍しく、弁当を作っている姿に懐かしさを感じる。
 ただ見つめている俺に気づくと一瞬目を丸くした。でもすぐにいつもと変わらない表情に戻り、微笑みとともに優しさを帯びた声で言った。
「あ、暁斗。……おはよう」
「お、おはよう」
 急に復帰したことには言及せず、弁当作りに戻る。これから仕事に行くのに任せるのは酷だろうと思い、駆け足で母の隣に立ち、出来上がった食べ物たちを詰めていく。それを見た母はなにも言わずに卵焼きの元へ向かう。
 完成すると、なぜか今日はいつもより美味しそうだった。母と作ったのはもうずっと昔。でも今なら、あの時のことを簡単に思い出せる。包丁を使うとき、あまりにも不安定で母が悲鳴をあげたり、想像異常にフライパンが重くて食べ物を落としかけたり。
「ありがとう、母さん。でもどうして作ってくれたの? 今日も学校には行かなかったかもしれないのに」
 心からの感謝とともに、疑問を投げかける。すると母は、少し迷ったようなそぶりを見せた後、らしくない顔をして言った。
「親の勘よ」
 親の勘? なんだそれ。
 普段の母なら絶対に言わないようなことを、それも真顔で言うので、おかしくて声を出して笑ってしまった。母もつられて笑い出す。
「なんだ、笑えるじゃない」
 俺よりも早くおさまった母は、笑みを含んだ安心したような顔で言った。どういう意味なのかわからずぽかんとしていると、今度は訴えかけるような目をして俺の両肩に手を置き顔を覗き込む。
「縋りたい時は、縋るんだよ。想いも、自分で伝えな」
 そう言った母は、「青春ねぇ」と言い残して自室へと消えた。一体さっきから何を言っているのだろうと不思議に思いながら、俺は学校に行く支度を始めた。

 扉を開け外に出ると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。なんか頭が痛いなぁと思っていたが、原因はこれだったか……。
 一度戻って傘を取り、さして一歩踏み出す。雨が傘にうちつく音を聞きながら、学校ではなくあの公園を目指す。
 目印の大きな木々に囲まれた公園が見えてくる。雨で少し滑りやすくなっている階段を登り、いつもの場所にいる鈴さんの元へ向かう。
「あ、おはよう暁斗くん。体調は大丈夫?」
「うん、なんとか。少し頭が痛いくらい」
 俺が天気の変化に弱いことを覚えていてくれたのか、症状を聞いて安堵の表情を見せる。だがそれは、瞬く間に曇っていってしまう。
「じゃあ、行こっか」
 少し不安げな表情を押し殺すかのように、にっこり笑って言った。俺は頷き彼女と共に学校に向かう。
 昨日の夜、俺と鈴さんはこの公園で待ち合わせることになった。スマホの電源を落としていたことに気づき起動させると、メッセージアプリには大量のメッセージと着信が届いていた。音沙汰なしだったこの二日間、本気で心配してくれたのだろうと思い少しだけ安心した。そこにまた一件の通知が入り、一緒に行かないかと誘われたのだ。正直教室にどんな態度で入ればいいのかわからなかったので、俺はありがたく承諾した。
 学校に着くまでの間、俺たちは口を開かなかった。いや、(ひら)けなかったの方が近いかもしれない。彼女は嫌がらせを受け早退しているために、どんな目に遭うかわからない。俺も三日ぶりの登校で、間違いなく一輝たちが突っかかりにくる。
 不安を胸いっぱいに抱えながら俺は、隣を歩く鈴さんに目を向ける。傘を持つ手が震え、怯える子犬のようだった。小刻みな振動が傘を伝って、たくさんの水滴が零れ落ちる。呼吸のリズムも崩れているのか、時々肩も動いている。巻き込んでしまった申し訳なさに心を抉られたが、時間は戻せない。彼女をしっかりサポートすることが、俺にできる最大の償いだ。
「鈴さん、一回深呼吸してみて」
 急な声かけに少し驚きながらも、一度立ち止まり深呼吸する。目を瞑って何度か繰り返すと、まだ少し苦しみを隠すように笑って見せる。
「ありがとう、暁斗くん。ちょっと楽になったよ」
 そう言った彼女はまた歩き始める。相変わらず曇った表情は変わらなかったが、震えが少しばかりおさまったように見える。
 校門が見えてくるにつれ、俺も少しずつ余裕がなくなってくる。下駄箱にて傘を閉じ、靴を履き替える。
 教室に入る前に、鈴さんと自然と目が合う。彼女は何も言わずにただ頷く。言葉はいらない、それは俺も思った。頷き返し、ともに地獄へと踏み込む。
 一緒に頑張ろう。その言葉を胸に抱き、なんとかなることを信じている。

「あれっ、一輝じゃん! 来たんだ」
 席に鞄を下ろした俺を見つけるなり、一緒にいた仲間を引き連れこちらにやってくる。どうやって冷やかしてやろうか、そういった目つきをして。
「何か用?」
 できるだけいつも通りな雰囲気を出しながら問う。すると彼らは吹き出して大きく笑う。
「お前ほんっと演技下手くそだな。どうせこの三日間、うじうじして出て来れなかったんだろ?」
 返答に悩む俺に、今度は睨むようにして言葉を投げつける。
「諦めろって。お前には無理。オーディションは俺が勝ち取って、主人公として最高の演技を見せてやるよ」
 自慢げに吐き捨てた彼は、嘲笑いながら席へと戻っていった。
 彼ら全員がどこかへ行ったとき、俺は安堵のため息をついた。何とか終わったあの時間は、妙に長く感じられ、とても呼吸が苦しかった。
「おはよう、暁斗」
 鈴さんの方に向くと、そこにはいつものメンバーが心配そうな、でもどこか安心したような顔で俺を見ていた。俺が挨拶を返す前に、北上さんは念を押すように言った。
「お前のことだから、『巻き込んでごめん』とか思ってそうだが、全然そんなことないからな。暁斗は悪くない。私らはお前を、応援し続けてるから」
 嘘偽りない言葉だということが、彼女らの眼差しや態度に表れていた。俺が心の底から「ありがとう」と伝えると、満足そうに微笑んでいた。
 先生が入ってくることで、自然とみんな自席へ戻っていく。北上さんの後ろ姿はとてもたくましく、とても強い味方ができたなと思うと、少し心が軽くなった。

 帰宅して玄関の扉を閉めると、溜まっていた疲れがどっと押し寄せてきた。立っているのも億劫で、その場に蹲る。ずっと神経を使っていたので、解放感が続けて押し寄せる。やっと終わった、地獄から完全な帰還を果たした。もう後はやることを済ませて寝るだけだ。俺は無理やり体を動かし、着替えるために自室へと向かった。
 着替えて椅子に腰掛け、今日のことを振り返る。今日というたった一日で、クラスの惨状を見せつけられた。
 ホームルームの後から、それは顕著に現れた。一時間目の移動教室では、鈴さんがクラスの女子に足を掛けられ派手に転ばされた。それを彼女らは見えていないかのように振る舞い、距離が離れたところでくすくすと、醜いものを見るように笑っていた。事前になるべく構わないようにと鈴さんには言われていたが、こんなものを見せられて何もしないのは流石に苦しい。散乱した用具を拾い上げ鈴さんに渡すと、約束を破った俺に少々怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑って『ありがと』と言った。
 わかってはいたが、危害を加えられるのは彼女だけではない。俺も一輝たちにいろいろとされた。すれ違いざまに背中を叩かれたり、突然押されたり……。あまり大きな怪我を負うようなものはなかったので、そこまで気にしてはいない。これが毎日続くとなると少し厄介な気もするが。
 とにかく心配なのは鈴さんの方だ。やっぱり陰口で囁かれるのは声質のものばかり。さらに彼女は、北上さんたちが干渉することをひどく嫌がっているらしく、巻き込みたくないという思いがはっきりと出ていた。もちろん北上さんたちもそれを気にしているらしく、昼食を一緒に食べているときに懸命に訴えかけていた。それでも頑なに鈴さんは拒否し、その後もうまくいっていない様子だった。
 状況が悪化しているのは俺たちだけじゃない。あの一件を皮切りに、いたずらや暴言が横行するようになっていた。一輝の態度はよりひどくなっていって、仲間内とまとまっているように見えて喧嘩が多い。クラスメイトも日頃の鬱憤を晴らすように分裂していき、孤立する人、一人を集中砲火するグループに分かれていった。鈴さんの言っていた“悪い雰囲気”は、俺たちに向けた陰口が増えたからではなく、生徒全員が簡単に他人を傷つけるようになってしまったからなのだ。俺はこんなことは全く予想していなかったので、驚きのあまり何も言えなかった。自分に危害が加えられて傷ついたというより、クラスがこうなってしまったという事実の方がショックだった。実際はただ浮き彫りになっていなかっただけで、ずっと前からこうだったのかもしれない。大嫌いな陰口や悪口が、一体いつまで飛び交い続けるのかという不安が、脳裏から離れなかった。

 多分ほとんどの人が嫌いであろう月曜日。俺ももちろん嫌いだ。流石に見せる顔がないので、金曜日の部活も、今日の臨時の部活も欠席し、あの公園を鈴さんと訪れている。
「演技はどう? もう明日が本番だけど」
「正直自信はない。でも、自分ができることを精一杯やれたから、落ちても悔いはない」
 とは言ったものの、内心結構焦っている。初めて演技を披露したあの日、たくさんのお褒めの言葉をいただいたが、このオーディションで気に入ってもらえるかは全く別の話。人前に立つことに慣れていない俺は、ああいう場に立つとすぐに頭が真っ白になるし、呼吸が乱れて何をしたらいいのかわからなくなる。治さなければならないとはわかっているのだが……。
「暁斗くん、すぐ緊張しちゃうからなぁ」
「鈴さんは、怖いとかないの? 失敗しちゃうかも、とか」
 彼女は「うーん」と言って少しの間考える。
「そんなにないかも。結構自信あるし」
 やっぱり自信か……。間違えるわけないって思えるくらいに練習を重ねる方が良いかもしれない。残されたこの僅かな時間をちゃんと意味のあるものにしよう。
 そんな風に自分で勝手に反省していると、彼女は心配そうな様子で問いかけてきた。
「学校、今日で二日目だったけど、どう?」
「え、あ、うん。なんとか、大丈夫だよ」
「暁斗くん、こういう時下手くそだね」
 動揺を隠しきれていなかったことは自分でもわかった。彼女の口からこの話題が出るとは思っていなかったし、単純に不意打ちすぎてしっかり答えられなかった。
「暁斗くんの大丈夫は、絶対大丈夫じゃないときのやつだよ。顔もそう言ってる」
 どうやら全てお見通しのよう。前から思っていたけど本当にすごい。何か能力の持ち主なのかと疑いたい。
 それに彼女を前にすると、なぜか素直なことを話してしまいたくなる。彼女なら話せる、彼女だから話したいという感情が湧き上がる。どうしてこんな簡単に心を許してしまうのだろう。他の人だったら絶対にこうはならないないのに。
「じ、実は……」
 俺は抱えていたもやもやを吐き出していった。

 話し終えると彼女は、呆れたように思いっきりため息をつく。なんか言っちゃいけないことを言ってしまったのかと不安になったが、すぐにそれは解消された。
「暁斗くんの優しさは、良い方にも悪い方にも傾くね」
「ど、どういう意味?」
「優しすぎるんだよー! 自分の方が酷い目に遭ってるのに他人を気にするとか普通の人間じゃ無理だよ!?」
 身を乗り出し声を張り上げて放つ。唐突に増した勢いに面食らっていると、彼女は嘘みたいに冷静に言葉を紡ぐ。
「暁斗くんはもっと、自分のことを気にしてよ。今まで一緒だった人が急に敵になるなんて、耐えれるとは思えない。苦しいんだったら、早めに吐き出した方がいい」
 とても不思議な感覚。気づかないうちに蓋をしていたが、まるで無理やりこじ開けられたみたいに思いが溢れてきた。もう一回閉じ込めるのは無理そうだったので、おとなしく彼女の言葉に甘えさせてもらう。
「……正直わかってはいたんだ。一輝が僕のことをよく思っていないこと、そもそも友達とも思っていないことも。だからそんなにダメージなんてないって思ってた」
 荒れてしまいそうな呼吸を整える。視線を落とし、テーブルの木目を見つめながら話を続ける。鈴さんの顔を見て話すことは出来そうにない。
「でも、やっぱり……、改めて実感すると、辛いな。一輝とは中学の時から一緒で、手を差し伸べてもらったのに……」
 言い終わってみて気づく。涙が今にも溢れてしまいそうで、声も震えていたことに。そして俺は、嗚咽を堪えながらも、最も伝えたかったことであろうことを言ってしまう。
「怖い、怖いよ、……っ、どうなっちゃうんだろうって。こんな人間が、あと半年も、どうやって過ごせば……」
 一筋の涙が、頬を伝っていることわかる。それがやがてテーブルに落ちるのを見た彼女は、立ち上がり俺の隣へと座る。ただ何もせず、彼女は一言だけ囁く。
「泣いて、いいんだよ」
 こんなベタな展開、ありがちだしそんなに効果のない言葉だと思っていた。でも違った。ここまで疲弊すると深く刺さる。堤防が決壊したように涙はとめどなく流れてくる。
 どうして彼女の前ではここまで明かしてしまうのだろう。こんなこと、他の人には絶対に言えない。だって親にも言えなかったのだから。……こんなことが少し前にもあり、全く同じことを思っていた気がする。それだけ彼女には助けてもらっているということだ。辛い時にそばにいてくれることがどれだけ重要なのかを思い知らされる。
 ひとしきり泣いて涙が止まってきた時、異様なくらいに心がすっきりしていた。関係ないことはほとんど消えていったので、明日のオーディションにも集中できそうだ。
「ありがとう、鈴さん。でも、君ももっと人に頼ってね。北上さんたちも心配してたよ」
 俺が見るからに元気を取り戻して満足したようだった彼女は、みるみると表情が曇っていった。どうやら触れられたくなかったようだが、放置するわけにはいかない。
「……巻き込むことになっても、許してくれるかな?」
 少し潤んだ目で問いかけてくる。北上さんたちと予想していた通り、やはり被害が広がることを気にしていた。鈴さんも結構わかりやすい。
「きっと許してくれるよ。多分、頼らない方が怒ると思うよ」
 すると彼女は、「そうだね」と言いながら笑い、俺もつられて笑ってしまう。お互い北上さんが怒っている姿が想像できているのだろう。過保護な彼女のことだ、場が凍りつくような怒り方をしている。
「怖いよ……。苦しいよぉ……。もう学校なんて行きたくない……」
 眉を下げて、無理やり笑っていた鈴さんも、結局は堪えきれずに涙が頬を伝っていく。
 涙を拭い、啜り泣く彼女は、今度はにっこりと笑みを浮かべる。
「私たち、ほんと馬鹿だね」
 くすくすと笑いながらそういう彼女に俺も賛成する。この一週間で痛いほど感じた。周りばかり気にしていつも自分は後回し、誰にも頼らないくせに行き詰まり、勝手に感傷に浸る。本当に、馬鹿だなと思う。でも今、お互いの存在によって、少しだけ変われたのだと思う。
 俺にとって彼女は、どんな存在なのだろう。この不思議な感覚の正体は結局なんなのだろう。顔を覗かせているずるい想いを奥底に押し込み、気づかないように振り払う。

3.みんなに支えられて

 ホームルームが終わり、俺の心臓はより一層音を立てる。オーディション開始まであと三十分ほど。時計を見てその事実が脳内で処理されると、鼓動は速く大きくなる。
「緊張してるねぇ、暁斗」
 北上さんたちが、動けなくなった俺を見るなり声をかけてくる。少しでも和ませようと、彼女は煽るような言葉を選んだのだろう。
「うん、やばい。心臓破れそう」
 単語を淡々と放ち、まるでロボットのようだと自分でも思った。彼女たちも笑っている。
「落ち着けって。暁斗ならなんとかなる」
 確信したように頷く北上さん。勝手なことを言うなといわんばかりの顔をする鈴さんは、ゆっくりと口を開く。
「行こう、暁斗くん」
 一度深呼吸し、妙に重みのある足を動かし彼女と共に教室を出る。オーディションのある日は部活がない。本来なら鈴さんも行く必要はないのだが、「私のスカウトだから」と言って聞かなかった。審査をすることはないが、最後まで俺の演技を観るのだと言う。なぜか彼女は、早く観たくてうずうずしている様子だった。不安や心配といった感情は持ち合わせていないようだ。
 体育館に到着すると、すでに雰囲気が出来上がっていた。参加者も審査員も、全員が揃っているみたいだった。
 審査員長は高橋さん、他三年生の方々四名。引退となる夏の全国大会が近いにも関わらず、こうして観てくれることにしっかり敬意を払わなければ。
 受付をしていた高橋さんに名前を伝えると、舞台裏へと案内される。別れ際、彼は呟くように言った。
「受けてくれてありがとう。心配だった」
 独り言のようで、その裏には応援の意図が込められていることを難なく読み取る。答える前に姿を消してしまったが、俺は心の中で最善を尽くすと誓った。
「あーきとっ。俺の次なんて、不運だなぁ」
 聞き馴染んだ声の方へと振り向くと、そこには一輝の姿があった。日にちが被るだけでなく、順番も近くなるなんて思ってもいなかった。でももう、そんなことで怖気付くような人間じゃない。俺はただ無言で、目線を交える。
「まぁ、がんばれー」
 鼻で笑った彼は、台本に目を戻す。あの様子だと、まだセリフが曖昧な部分があるようだ。俺はもうセリフは覚えている。あとはどうやって演技するかが重要だ。
 大丈夫、大丈夫。沢山練習したんだ、なんとかなる。
 高橋さん、高華さん、北上さん、それに鈴さん。演劇に関わるほぼ全ての方に沢山の助言をもらった。沢山励ましてもらった。
 信じろ、信じろ。お前ならできる。
 一番最初の参加者が呼ばれ、オーディション開始が知らされる。

 すでに三人の演技が終わり、あと四人で順番が回ってくる。一輝は不安にかられているのか台本を見つめたまま座っている。俺はもっと緊張してまた手足が震えてしまったりするのかと思っていたが、意外にもそうはならず、割と落ち着いている。少しの不安や緊張があるが、うまくバランスが取れているようだ。
 一輝の名前が呼ばれ、舞台上に出てくるよう言われる。まだ完璧ではないのか、「クソっ」と言葉を漏らして表へと出ていった。次はもう自分の番が回ってくる。気持ちはまだ落ち着いている。これをなるべく保って、万全の状態で練習の成果を発揮しよう。
 待機しながら、計六人の演技を観た。素直に言うと、俺の方が上手く出来そうだと思った。本番になって焦りまくってしまう可能性はあるが、何事もなく終われば問題なく選ばれるだろう。ただ、今回のオーディションは三日間行われるため、みんながみんな同じような演技をするかはわからない。とんでもない参加者がいる可能性もある。
 一輝の演技も例に漏れずそこまで上手ではない。間違いなく高橋さんは気に入らないだろう。「普通」、ただその一言で片付けられてしまうのではないのだろうか。それに彼はまだ恥じらいを含んでいてどこかぎこちない。演技において恥ずかしいという感情を持ち合わせることはできるだけ避けた方がいいだろう。それは演技にも出てしまい、観ている人に違和感を抱かせる。
 演技を終えた一輝は、審査員に向けお辞儀したあと、そそくさと逃げるように降壇した。
 短いはずなのに、とても長く感じた沈黙。そして声がこだまする。
「次の方、お願いします」
 また深呼吸。拳をグッと握りしめて覚悟を決める。やり切る、できる。
 ゆっくりと一歩踏み出し、真ん中へと向かう。審査員に体を向け体育館を一望する。こうやってみると意外と広い。
「クラスとお名前をお願いします」
「一年C組、鷹波暁斗です」
 淡々と話す高橋さんに、俺はしっかり聞き取れるように答える。今まで支えてくれたいた方々の顔は、今日は全く違う。他人のように、鋭い目つきで座っている。でもその中には、まだ微かに応援するような気持ちが表れているような気がする。
「どこからがスタートなのかは把握していると思いますので、お好きなタイミングでお願いします。今セットされている小道具たちはぜひお使いください」
 用意されていたものは全て俺が想像していたものに近かった。認識に大きな違いがない、それはとても大きな安心感を与えた。
 オーディションで観られるシーンは、物語で最も大きい山場。主人公が別人のようになって感情を晒す部分を、どうリアルに、より引き込まれるように演じるかが重要だ。
 一礼し、深呼吸する。
 一発目のセリフから、好調な滑り出しだった。

「お疲れー! めっっっちゃ良かったよ!」
 オーディションを終え鈴さんと体育館から出ると、堪えていたものを一気に吐き出すように口を開いた。嘘かと思うくらいに俺を褒めちぎる。
「あ、ありがとう……」
 自分ごとのように喜んでいるのを見て驚き、そう言ってもらえて嬉しかった。個人的に引っ掛かる点はいくつかあったが、かなり良い演技ができたのではないかと思っている。なぜかわからないけど自信がある。
「あと二日でどうなるかわからないけど、今日のメンバーの中だったら暁斗くんで決まりでしょ」
「そ、そうかなぁ」
「そうだよ! みんな帰って行く中暁斗くんは最後まで見てたからわかるはずだよ? 私がこう思ってるんだから、高橋さんには映ってすらないと思う」
 ズバズバと話していく彼女の意見には、少し納得できる。全員というわけではないが、本当に練習したのかと疑うほど酷い人だっていた。かと言って、俺が一番良かったと断言できるわけでもない。上手だなと思ってしまった人は少なからずいた。
「あとはもう、結果を待つだけだね。ビクビク怯えても仕方ないし、テストに集中しよう!」
 彼女は拳を高々と突き上げ宣言する。その側で俺は、すでにテスト一週間前であることを思い出され絶望していた。オーディションばかりで完全に忘れていた。今年は例年よりも中間と期末の感覚が長く、範囲も広いと聞いた。今から勉強を始めて間に合うとは思えない。
「その様子だと、忘れてたみたいだね。よし、公園行こ? お互い教え合えば一週間でも余裕だよ!」
「……それは鈴さんの頭がいいからでしょ」
 俺はぽつりと呟く。彼女は「何か言った?」と無邪気に尋ねてきたが、なんでもないと首を振る。
 成績トップというわけではないが、彼女は頭がいい。努力した結果なのだろうけど、勉強時間と結果が全く見合っていない。俗に言う地頭が良いというやつだろう。本当に、羨ましい限りである。
 半ば強引に公園に連れてこられる。勉強が目的で連れてこられたのだと思っていたが、彼女が一番に発した言葉は全く関係のないものだった。
「今年も演劇部は夏の全国大会に出場するんだけど、もちろん行くよね?」
 三年生の最後の演技。さらにその演劇には、二年生の高橋さんと高華さんもいる。ずっと頑張ってきた部活動の節目となる。今年は四連覇もかかっているし、個人的に高橋さんの演技が気になるので絶対に行きたい。
「行けることなら行きたい、けど」
「だよね!? よし、じゃあ一緒に行こう! 香織たちも一緒だけど問題ないよね!?」
 俺が答え終わるのとほぼ同時に、彼女は目を輝かせながら言う。
「でも、演劇部は演劇部でまとまって行くんじゃないの?」
「一年生は関与しないみたいなんだぁ。近くで観れたらそれはもちろん良かったけど、私たちは部員じゃなくて、あくまで客としてしか観れないんだって」
 特に一緒に行くことに問題はないのだが、やっぱりどこか気まずくなってしまいそうで怖い。多分また電車に揺られることになるのだろう。
「会場ってどこなの? やっぱり東京?」
 特に意図もなく、気になったので彼女に問うと、度肝を抜く答えが帰ってきた。
「香川だよ」
「へぇ、香川なんだ。てっきり都市部の方で開催されると思って……えっ!? 香川!?」
 おいおい香川だと……。四国なんて行ったことないし、何より結構遠い。船とか使うのかな。てかなんでこんなに平然としていられるんだ。
 もしかしてと思った俺は、恐る恐る尋ねる。
「香川って、どこかわかってる……?」
「わかるに決まってるよ。四国の中で右上にあるところでしょ?」
 ゆっくりと頷くと、彼女は少し考えるそぶりを見せた後、突然顔を上げ叫ぶ。
「めっちゃ遠いじゃん!」
 彼女の聞き取りやすい声は、公園内にこだまする。静まり返っていたので、それは格段と大きく聞こえた。
 想像以上に響く声に頬を赤らめる彼女を見て、意外と抜けてる人なのかなと思ったが、口にはせずに留めておく。
「ご、ごめん。でもここまで遠いと日帰りじゃ無理だなー。暁斗くんは行ける?」
「ちょっと難しそう。今から宿の予約取るのも厳しそうだし」
「そっかー。残念」
 そう言って彼女は、頬杖をつきながらシャーペンをぐるぐる回している。これじゃ勉強はなかなか進まなそうだな。
 俺も先輩方の演劇を観に行きたかったので、少し気分は沈んでいたものの、遅れを取り戻すために数学の教科書を開く。得意なものから始めていこう。
「ねぇ、暁斗くん。もし夏休みに、遊びに誘ったら、来てくれる……?」
 上目遣いで俺の瞳の奥を見据える彼女に、一瞬にして惹き込まれる。今まで感じたことのない不思議な感情に支配される。
「都合が合えば、行ける、けど」
 動揺して上手く話せない上に、顔が熱っているのが自分でもわかる。これを聞いた彼女は、大きくガッツポーズし、「楽しみだなぁ」と声を漏らした。
 そのあとは特に何事もなく解散になり、帰路についた。家が見えてきてもまだ脈が速く、謎に緊張している。玄関の前で立ち止まり、考える。
 彼女を前にして生まれ、ずっと気がかりだった感情。このよくわからない、蓋をした、不思議な、ちょっと苦しいような感情。
 間違いない、とんでもないものが芽生えてしまっていた。
 どうにかして隠し切らなければ……。

4.努力の結果

 オーディションが終了して最初の月曜日の昼休み。七月中旬となり、雨の降らない日が続いていたことから梅雨明け間近と考えられていたが、今日は嘘かのように悪天候。今年は梅雨はとことんおかしいな……。
 天気も相まって不安が倍増しているのは、明日がテストだからでも、勉強したのに何も身についていなかったからでもない。
 そう、まもなくオーディションの結果が発表されるのだ。総勢二十三名からたった一人、審査員の心を掴んだものだけが選ばれる。俺はいつものことながら、心臓がバクバクと音を立てる。今日までの間、ずっとビクビク怯えていたが、もうそんな日々とはお別れとなることを素直に喜べない。
 あれだけ練習したんだし大丈夫だと何度言い聞かせても、やっぱり不安が勝ってしまう。演技に自信はあるし、鈴さんも大丈夫と言ってくれた。演劇部の方々にも支えてもらった。大丈夫、大丈夫。……なんか最近はずっとこんなことを言ってる気がする。
 一人で馬鹿みたいにそわそわしている俺を見た鈴さんは、最初こそ笑っていたものの、優しく励ましてくれる。
「大丈夫だって。もう張り出されたみたいだし、一緒に見に行こ?」
 先頭を切る彼女について行きながら掲示板へと向かう。
 人が多すぎて目当ての記事がどこにあるのかわからない。探していると、「うわぁー、落ちたかー」と嘆く声が聞こえた。それは意外と近くだったので、人混みさえ抜けてしまえばすぐに見つかる位置にあるのだろう。
 だんだんと人が減っていき、スペースも空いてくる。探すなら今だと思い掲示板と睨めっこしていると、鈴さんが、「あったよ!」と少し大きな声で言い放ち、俺の腕を引っ張り連れていく。
 オーディション結果、という白地に黒字で淡々と書かれている記事。もはや張り紙同然のそれを、俺は上から目で追って行く。合格者の発表と同時に、主要キャストも公開されるらしい。
 隣で見ている鈴さんが息を呑む音がする。ギュッと掴まれた俺の腕は、本来なら痛みを覚えるのだが、そんなことを感じないぐらい驚き、嬉しかった。
 思わず俺は、『主要キャスト一覧』と書かれている部分を、声に出して読んでしまう。
「主演——鷹波、暁斗」
 一瞬にして、視界がぼやけていく。我慢したいけど、できそうにない。同じ部分を何度も目で追ってしまう。
「やった……、やったー! 暁斗くん、合格だよ!」
 そう言いながらがっしり掴んだ腕をブンブン上下に振る。あまりに大きく振るので、周りの人に当たってしまわないように一度人混みを抜ける。
 まるで自分のことのように喜んでいる彼女は、目に涙を浮かべている。俺は人混みを抜けてやっと、合格したという事実を認識する。
 今までの辛かったことや楽しかったことが何個も蘇ってくる。それが報われたことが本当に嬉しくて、もう何も言葉が出てこない。それは彼女も同じみたいで、なかなか腕を離さずに号泣している。
「ありがとう、鈴さん。おかげで受かったよ」
「……私は、何もしていないよ。全部、暁斗くんの力だよ」
 俺の腕を掴んでいない方の手で何度も涙を拭う彼女は、嗚咽を堪えて言葉を繋ぐ。自分のためにこんなに泣いてくれてくれるなんて思ってもなくて、少しビックリしている。
 辛かった。苦しかった。でもやっと、ありのままの自分を、誰かに認めてもらえた。本当にやりたかったことを実現する機会が巡ってきた。
 ありのままの自分でも、何かを成し遂げられることを肌で感じた。

 もっと落ち着ける場所に行きたくて中庭に移動する間、ずっと泣き続けている鈴さんにはたくさんの視線が集まり、まるで俺が泣かせたみたいだった。その恐怖心が伝わっていたのか、ベンチに腰を下ろしたときには「ご、ごめん」と言いながら落ち着いた素ぶりを見せた。
「改めて、おめでとう。暁斗くん」
 満面の笑みで祝福してくれる彼女の目は、擦りすぎてしまったのか赤く腫れていた。泣きすぎて前髪の一部が目元に張り付いてしまっている。
 流れで中庭に来てしまったが、気づけば雨は止み、太陽が俺たちを照らしている。神様からも祝福されているみたいで、またちょっと嬉しくなる。これで虹も見れたら良かったのに。
 右腕に突然痛みが走り、彼女の手が離れていることに気づく。相当強く掴まれていたのか結構痛い。
「暁斗くんはこれから、演劇部の部員として、短い間だけど生活してね。部活にも毎回出席してほしい」
 オーディションに熱中するあまり、彼女に言われるまで忘れていたが、これはあくまでただの通過点にすぎないのだ。最終目標は九月中旬の文化祭だ。
 また正式な部員ともなれば、練習がより厳しくなる。最後まで耐え抜く覚悟を決めなければならない。
「まぁでも、明日からテストで部活もないし、あまり重く受け止めなくていいと思うよ。それに、夏休みだし!」
 考え込んでいるように見えたのか、不安を和らげるように明るい声で言った。
 今回のテストを終えると終業式を迎える。今年はすごく特殊な日程で、生徒も教師も振り回されている。
「お互い、最高の演技にしようね!」
 喜びのあまり、彼女の言葉に頷くことしかできない俺に見えない手を差し出す。
 太陽に照らされ、輝きを放つ彼女の笑顔は、とても綺麗だった。

 教室に戻ると、北上さんたちが笑顔で迎えてくれた。どうやらもう結果は知っているようだ。
「やったな、暁斗。お疲れ様」
「うん。いろいろありがとう」
 緊張ばかりしていた俺を、「なんとかなる」と言って励ましてくれた彼女らにはとても感謝している。本番では普段よりも楽に、自信を持って演技ができた。
「これからもっと大変になるけど、無理はするなよ」
「うん。適度に頑張る」
 オーディションを終えた労いと、これからの練習の緊張感を、ちょうど良い塩梅で伝えてくれる。そのおかげで怠けることも、緊張しすぎることもなくなってくる。
「てかなんで鈴が泣き腫らしてんだよ! めっちゃ赤いぞ!?」
「うっ……、だってー……」
 当然ながら、北上さんも鈴さんの様子に戸惑っている。思い出してまた泣き出しそうになっている彼女を見ながら、知らないところでいろんな人が応援してくれていたことに気付かされる。オーディションを諦めなくて良かったと改めて強く思う。
 そんな風に和気藹々と話していると、突然体に衝撃が加わり、左に倒される。気づけば床はすぐそこにあり、左半身に遅れて痛みがやってくる。何が起こったのかわからずにいる俺に元に、罵るような声が届く。
「なんでお前なんだよ! どんな手を使って受かったんだよ!? ふざけんなよ!」
 声の主は一輝。思いつく言葉を、声を荒げて俺にぶつけ続ける。茹蛸(ゆでだこ)のように顔を赤くして、今まで見たことのない表情をする彼は、まるで別人のようだった。
 今度は俺に蹴りを入れようとするが、それに気づいた北上さんが慌てて静止にかかる。俺はその機会を無駄にしないように、左半身に残る痛みに耐えながら起き上がる。不意打ちだったため、受け身が取れずに大きなダメージを負っているようだ。立ち上がると余計に痛みが増していく。
 一輝は北上さんの静止を振り切ると、俺との距離を詰めて問いただす。
「おい、答えろよ! どうやって受かったんだよ! お前みたいなやつが!」
 彼はオーディションに落ちた挙句、合格者が俺だったことにより一層腹を立てているのだろう。今にもまた暴力を振るいそうな体は、怒りによって僅かに震えている。
 でもなぜか、恐怖という感情は湧いてこなかった。なんならかなり落ち着いていた。俺は一輝に、もう今までの暁斗はいないと伝えたかったのかもしれない。平常心のまま、冷静に彼の問いに答える。
「努力をしたから、かな。一輝は嘲笑(わら)っていたけど、台本は何度も読んで沢山メモを残したし、オーディションに直結しない部分だって練習した。実際に演劇を観に行ったこともあったし、第三者に観てもらってアドバイスをもらった。こんな僕だからこそ、できる限りの努力をした。その結果だよ」
 理解できないといった顔をする一輝に、俺は殴られる覚悟だった。今まで明らかに立場が下だった人にこんなことを言われれば、一輝の怒りはますます収まらなくなる。それでも俺は伝えたくて、自覚したかった。自分がもう今までとは違うということを。演劇を通して少しでも変わったということを。
 顔を歪ませた彼は、再び怒号を響かせる。
「俺が……、どうしてお前なんかに……。クソがっ!」
 同時に一輝は近くにあった机を蹴飛ばし、大きな音と共に倒してしまう。俺と一輝の二人に集まった視線の中に、面白がっているものはもうない。一輝のあまりの変貌具合に怯えているのか、それに近いものだけだ。
 居心地が悪くなった彼は、舌打ちをして教室を出て行った。どこへ向かったのかはわからないが、もう知る必要もないだろう。だってこれは、ただの喧嘩ではない。きっと一輝から完全に離れるという決別なのだろう。
 倒れた机をもとに戻し、喧騒がまた少しずつ戻っていく。痛みのある箇所の目を向けると左腕に痣ができただけで済んでいるようだった。
 授業が始まる寸前まで、北上さんたちは俺に話しかけなかった。「あれで本当に良かったのか?」と問いかけるような、心配するような表情をしていたが、聞かないでいてくれているのだろう。自然な気遣いがありがたくて、心が温かくなる。