君と笑い合ったあの日々を、「演技」だなんて言わせない

1. 応えられるように

「ま、マンツーマンで練習……?」
 月曜日の昼休み。土日に雨を降らした空は、度々開放される屋上に温かな光を与えている。桑原さんに呼び出された俺は、少し強めに話す彼女に気圧されていた。
「応募人数が二十三人なんだって。それに部長は絶対妥協を許さない人だから、普通に演技しただけじゃなかなか好印象は残せないと思う。あ、ちなみに部長は当日の審査員長ね」
 突然の呼び出しに戸惑う俺に対し、ゆっくりと説明してくれる。
 先週の部活に参加したとき、部長がとても厳しいだろうことはなんとなく感じていた。優しそうな見た目に反して、演技には最大限心を燃やしている証拠だとも思う。
 その後も、俺の不安な心を少しずつ和らげるように会話の応酬が続く。
「でも逆に『こいつならやれる』って思ってもらえれば、最大限尽くしてくれる。だから、このワンシーンはすごく重要なの」
「……ことの重要性は充分わかったよ。でも、桑原さんにも役があるのにつきっきりで見てもらうのは申し訳ないよ……」
 すると彼女は、少しだけ険しかった表情が柔らかくなった。そして誇らしげな顔をして、胸をポンっと叩く。
「暁斗くん、なんで私がわざわざ目立つようなヒロイン役を担ったと思う?」
「……やりたかったからじゃないの?」
「それもあるけど! ……この役は主人公に一番近いでしょ? だから、私と君のそれぞれがちゃんとしないと上手く成立しないし、ちゃんと息を合わせることも大事。さっきは『指導』みたいな風に言ったけど、言い換えれば『二人で練習』がしたいってこと」
「迷惑でないのであれば、練習したい」
 まだ少し気が引けた。だが彼女の言う通り、個人で練習しても、演技を知らない俺はなかなか伸びるようには思えない。ここは素直に彼女に甘えることにする。
 彼女は、「やったぁ!」とガッツポーズと共に喜び、ぴょこぴょこ跳ねていた。
「今日の放課後! 体育館ね!」
 顔を赤らめ興奮気味にそう伝えると、逃げるように立ち去って行った。なんか今日の桑原さん勢いがすごいな……。
 このときの俺は、練習がすごく楽しみだった。早くやりたくてしかたなかった。

 ホームルームが終わり、教室が騒がしくなる。帰り支度を終えた多くの生徒が帰っていく。
「暁斗くん! 先行ってるね!」
 桑原さんはそう言って教室を飛び出して行った。昼休みから明らかに様子が変わっている。相当演劇が好きなのだろう。じゃないとあんなに態度でるもんじゃない。
 彼女を待たせるわけにはいかないので、素早く荷物をまとめる。そこで一輝に声をかけられた。
「暁斗、桑原たちと最近よく一緒にいるよな」
 そんなに一緒にいたかな、と思った後、演劇のことがバレてはいけないと思い必死に誤魔化す口実を考える。
「そうかなぁ。確かに少し話すようになったけど、『よく』ってほどではないと思うよ」
 そんなもんかという風に納得したような顔をする一輝を見て一安心する。よし、我ながらいい回避だった。
「一輝は、あれから仲直りできた?」
 これもよく使えるテクニック。素早く話題を変える。ただ単純に心配だったというのもあるが。
「まぁ、ぼちぼちって感じ」
 少々浮かない顔をしていたが、一輝のことだし、上手くやっていけるのだろう。心配するのも余計なお世話だったか。
 彼に「さよなら」を告げて、体育館へと急ぐ。
 今日は月曜日で、基本的にどの部活も活動をしない。図書室でも利用しない限り、ほとんどの生徒は帰宅する。学校に残るなんて滅多にないので、とても不思議な感覚だ。
 体育館へと到着し扉を潜る。一番奥、正面に見えるステージの上で鞄を下ろし、足をぷらぷらさせている桑原さんを視界に捉える。
「あっ! やっと来たー。遅かったね」
 彼女の明るい声が体育館に響く。広い空間に二人だけというのがまた新鮮で、特別感が感じられた。
「ご、ごめん。そんなに待たせちゃった?」
「すごく待ったっていうわけじゃないけどね。まぁいいや。早くやろう!」
 台本を握る彼女を見て俺も思い出し、カバンから取り出す。付箋がたくさんついている彼女のものに対して、俺のものは特にもらったときと変わらない。少し折り目がついているくらいだ。俺は全体に目を通すので精一杯だったが、彼女はかなり深いところまで読み込んでいるのだろう。本当に、すごい。
「目は通してるよね? オーディションの部分はどう?」
「一応全部。オーディションの部分は結構覚えてる。まだちょっと不安だけど」
 俺は前回帰宅後、台本を夢中になって読んでいた。そして土日を使ってオーディションの部分だけでもと思い何度も復唱した。おかげで九割ぐらいはもう覚えている。
「すごいねぇ! 最初からそこまでできる人はなかなかいないよ!?」
 彼女が想像以上に褒めてくるので、少し照れくさくて目線を逸らした。
「じゃあ早速、やってみよっか」
「えっ?」
「そんなに緊張しなくてもいいよ。試しに一回通して、改善点見つけるだけだから」
 そうやって言うけど、やったこともない人間はそれですら難しいんだよ……。
 流石にまだ早いのではないかと抗議してみたが、難なく俺が押し切られた。彼女の言う「何事もやってみないとわからない」という意見がごもっともすぎるというのが決め手だった。
 自分ができる最大限の演技を、初めて人に見せた瞬間だった。

 演技が終わり、やり切れたという思いの裏に、不安が顔を覗かせた。
 ……桑原さんがあまりよろしくない表情を浮かべていたからだ。今の演技に対して悩むような、失望とまではいかないような、なんともいえない表情を。
 少しの沈黙が長く感じて不安が増大していくと、やっと桑原さんが声を発してくれた。
「正直、びっくりしてる。初心者とは到底思えない。ただ、良い演技をするあまり、暁斗くんにはもっと完璧な演技を求めたくなっちゃった」
 彼女の言葉を聞いて少し安心した。罵詈雑言を浴びせられなかっただけマシだ。
 彼女は優しいから、きっと濁して言ってくれたのだろうが、直すべき点がたくさんあるのだろう。だが、教えたとして上から目線みたいな感じになることを嫌っている様子だった。
 俺は教えてもらう立場だ。ここはしっかり、自分から伝えないと。
「どこがダメだったか、教えてくれないかな……?」
 少し俯きがちだった彼女は顔を上げると、少し間が空いたが笑顔で頷いてくれた。そして「えっとー、まずは……」と呟きながら台本をめくる。ページを見つけて反対に折り曲げて持つと、一つ目の欠点を話してくれた。
「まずは声、かな。全体的に問題なく聞こえると思うんだけど、もう少し欲しいというか……。でもそれは、大きさというよりかは、ハリのある声、みたいな」
 彼女が言いたいことはなんとなくわかる。それにこれは俺も薄々思っていたことだ。
「えっと、喉からじゃなくて腹から声出せ、みたいな?」
「そう! それっ!」
 一拍置いて、「めっちゃ大きい声出しちゃった」と言って、その光景が面白くて二人で笑い合った。
 お互い落ち着くと、さらに彼女は続ける。
「でも、人物の感情を声に吹き込むのはものすごく上手。それは絶対消さないでほしい」
「……でも、声質を変えるといっても、具体的に何を意識したらいいの?」
 小中学生の時の音楽の授業でよく言われていた、「腹から声を出す」。お腹に力を入れろとかいろいろ言われたが、いまいちよくわからなかった。
 彼女は悩んだ末、ゆっくりと説明してくれた。
「……発した声が一本の糸みたいに考えたみてほしい。その糸が震えたり、曲がったりするんじゃなくて、ぴーんっと張る感じ。やっぱり、筋トレとかも必要になってくるんだけど、筋肉がつきすぎると却ってだめになっちゃうから気をつけてね」
 なるほど、と感心しながら頭の中でイメージしていく。例えがわかりやすくて理解は容易かった。
 演技の練習の一環として、腹筋や背筋、体幹などのトレーニングをすると聞いたことがある。この学校の演劇部はどうしているのかわからないが、少なからず個人でやっているのだろう。
 イメージや計画を膨らませている俺に、さらに助言をくれる。
「でも、これを全てのセリフでやらなきゃいけない訳じゃないのは理解してね。特に今回の主人公は、明るくて溌剌(はつらつ)というよりかは、控えめで少し暗めだから、あまり出番はないかもしれない。でも使ったほうがいいところもあるはずだから、覚えておいてね」
 人物の特徴も踏まえて事細かに教えてくれる。自分の持つ認識も確認できて、そういう不安にも配慮してくれているのかと思い改めて良い人だなと思った。
 性格や環境、場面から、そのセリフに込められた想いを確かめて、どう表現するか考えよう。もっと台本を読まなければ……。
「じゃあ、早速やってみよう!」
 場面の冒頭に戻りセリフを再確認する。序盤はあまり出番が少ないが、他にも工夫を探してみよう。
「熱心に練習するのはいいが、もう閉めるぞ」
 練習を再開しようとした時、体育館の扉付近から太く芯のある声がかかる。声の主、上田先生は演劇部の顧問……というよりかは、ほとんど部活に来ないので責任者みたいな人だ。実際に経験があり、改善点を探す際にお願いしているらしい。
 時計に目をやると、すでに三十分が経過していた。本来ならば体育館は部活がある日のみ開放されるので、こういうことはできない。もう少しやりたくてもここは引くことしかできない。
「わ、わかりましたー! すいません……」
 彼女が声を張って伝えると、先生は去っていった。
 練習を終わりにせざるを得ないとわかると彼女は、明らかに肩を落としていた。大きくため息を吐くと、悲しみを帯びた声で言った。
「今日はもう帰ろうか。また明日。あ、部活もあるから、よかったら来てね」
 台本を鞄しまって、とぼとぼ歩いて行く。先ほどまでのテンションはどこにいったのか……。
 彼女の姿を眺めていると、ちゃんと伝えていないことを思い出して呼び止めた。
「桑原さん、今日はありがとう。わざわざ時間を作ってくれて」
 こちらに振り返った彼女は、一瞬驚いたような顔を見せた後、満面の笑みを浮かべて、ただ一言だけ言った。
「また、やろうね!」
 さっきまでの雰囲気は消えて、とても明るい快活な声だった。上機嫌になったのか、少しだけ足取りが軽くなっているようにも見える。
 扉を出る際にもう一度こちらに向き直り、手を振って帰っていった。俺は振り返した手を下ろして、この一時間を思い出す。
 時間があっという間に感じるくらい、楽しかった。彼女と過ごしているのは誰よりも居心地が良く、安心できた。
 そして何より、疲れなかった。顔色を伺うことも、隠すこともしなくていい。どんな自分でもきっと受け入れてくれる、そんな絶対的な信頼のようなものがあった。
 浸っているうちに、彼女と練習できることがとても待ち遠しくなっていた。

 今日、平年より遅めの梅雨入りが発表された。
 個人的にはもっと前から梅雨入りしていたのではと思うのだが、正式には今日かららしい。
 しとしとと雨が降る中、いつも以上に辛い体を抱えた俺は、やっとの思いで教室に辿り着く。
「どしたん、暁斗」
 登校して最初に話しかてきたのは、意外なことに北上さんだった。彼女らは不思議そうな表情を浮かべている。四人が揃っていることなんて珍しいな、なんて思って時計をみると、イレギュラーだったのは俺の方みたいだった。普段より十分近く遅い。
 それに今日は一輝がいないみたい。彼が休むことはないと思うので、多分朝練だろう。もうそろそろ大会も近いって言ってたし。
 見慣れない光景に少々驚いていると、ぼーっとしていると思ったのか心配そうな顔で桑原さんが尋ねてきた。
「だ、大丈夫? 顔色悪いけど……」
「うっ……ちょっとやばいかも。天気とか気圧の変化に弱くて……」
 俺は彼女らに弱々しく答える。頑張って平然を装うつもりだったが、辛すぎて上手くいかない。
「そっかー、これから大変になりそうだな」
 北上さんが納得したように言う。
 彼女らとは、かなりカジュアルに接することができるようになった。桑原さんとの練習以来、演劇部の練習には顔を出すようにしていたのがきっかけだ。演技が極まっていくのと共に、こうして人脈も広げられたのはとても嬉しい。一週間でここまで距離を詰めれたのはほとんど北上さんのおかげっていうのは内緒。
「暁斗くん、今日も来る?」
「うん。もっと上手くいくように、お邪魔させていただきます」
 最近、なぜかよくわからないのだが、桑原さんを除く彼女ら三人は、こういう風に話していると決まってにやけている。クラスメイトが陰口を言っている時のようなものは感じられないので、特に気にしてはいないのだが、ずっと続いていると気になる。
「熱心だなぁ、暁斗は。オーディション、絶対受かるじゃん」
「ちょっと香織。あんま適当言わない」
 桑原さんがそう言ってくれて少しありがたかった。あまり期待されるのは喜ばしくない。自分でもわかるくらい演技は上手くないし、欠点が多すぎて審査員のお気に召すとは思えない。
「まぁでも、頑張ってな。演劇部の人たちは、結構楽しみにしてるから」
 そう言う北上さんをはじめに四人全員頷いていた。なんて返せばいいのかわからず困惑する俺に、手を差し伸べるかのように先生が入ってきてホームルームが始まる。
 正直あんなに期待されるとは思ってなかった。演劇部の部員なわけでもないし、経験があるわけでもない。なんなら一輝のような明るい性格ではないので、避けられる、よく思われないと思っていた。なぜかわからない期待に押し潰されそうになる。
 もし、ここで期待を裏切ることになったら、どうなるのか。失望されて、広がった人脈はまた戻ってしまうのか。失敗しても、今のように仲良くしてくれているのか。
 重かった体が、格段に重みを増した。

 演技担当の方たちは、体育館での練習に切り替わる。先週その知らせを聞いたとき、こんなに早いのかと驚いていると、「うちの部活は特殊だから」と高華さんが笑っていた。そうだよな、もっと色々話し合ってるイメージは間違ってないよな。
 体育館に着くと、もうすでに舞台上で何やら話していた。俺は部員じゃないので、毎度のことながら隅っこで見学させていただいている。
 今回の練習は劇の頭。人物の特徴の大まかな部分が明らかになる割と重要なシーン。
 俺を含めた主要キャスト六名のうち、最も登場するのは四名。俺を除いた三名の役者が舞台に立ち、他はその下で見守る。流れを確認して、思ったことを伝え合う。
 だったはずだが……
 先輩の田辺(たなべ)さんから演技が始まった。
「ダメ。一回中断。ちょっと来て」
 高橋さんから低く、冷たい声が放たれる。
 全員口を閉じていたが、明らかに困惑した雰囲気が漂い始めている。間違いなくこれは、高橋さんにスイッチが入ってしまった証拠だ。普段の彼はものすごく冷静で、それは見学をしていてすぐにわかった。そんな人が、いきなり練習内容から逸れたことをするのは、よっぽどのことがあったからだろう。そして、演劇に対する想いがかなり強い証だということを悟る。
「よし。……もう一回最初からいこう。止めてすまなかった」
 そう言って高橋さんはもといた場所へ戻り、田辺さんもまた舞台上に戻る。そして、演技が再開する。
 先ほどのセリフが一通り終わったとき、俺は高橋さんの実力に圧倒された。
 さっきと全く違う。
 具体的に何を変えたかとか、そういうものはわからない。もしかしたらわからないぐらい細かいものなのかもしれない。でも決定的に何かが違う。
 田辺さんの役はクラスの中心人物。いわゆる誰にでも好かれる様な人間。コミュニケーション能力も高く明るい性格な彼を、余すことなく表現している。
 演技って、面白い。
 周りからは気づかない、些細なことでも何かが変わる。まるで人のように。実体のなかった役に、どんな命も吹き込める。演じる人の人間性や癖なんかでも変わるし、表現の幅は無限大。そんな素晴らしいものに関わることのできる日が、本当に来るなんて……。
 その後は特に止められることなく終わった。続いて意見交流が行われる。ここで部員の方々の優しさが顕著に現れた。
 俺が想像していたのは、ズバズバと直した方が良いところを投げられ、指摘される側はものすごく辛いものだと思っていたが、全く違った。良かったところもしっかり伝えていたし、もちろん改善点も教えてくれるのだが、全然棘がない。体育館に漂う空気はとても柔らかく、楽しげだった。
 初参加のときに衝撃を与えられた桑原さんと高華さんにも、様々な助言が伝えられていた。どれだけすごい人も、やっぱり完璧ではないのだなと思い、自分も完璧じゃなくていいんだと安堵のため息をついた。そこまで気を張る必要はあまりなさそうだ。
 交流が終わると、気づかないうちに姿を現していた上田先生が口を開いた。
「非常に良いと思う。最初の練習とは思い難いくらい良いと思う。個々の人物がしっかりと表現できている。だが、せっかくの機会だし、熱心な努力家さんも、参加させてみてはどうだ?」
 熱心な努力家? 一体誰のことなんだろうと、演劇部の方々を見回していると、数人と目が合った。
 えっ……。まさか……。
「いいですね。でも良いのですか? 参加すること自体はものすごく賛成なのですが、正式な部員ではありませんし」
「全然大丈夫だ。もし何かあれば、俺がなんとかするよ」
 高橋さんと先生のそんな掛け合いが聞こえてくる。その時俺は、焦りすぎて二人を捉えれなかった。
「ありがとうございます、先生。では……、暁斗くん。やってみよう」
 高橋さんと上田先生の、期待に満ちた目。部員の皆さんから次々と上がる期待の声。心の中で絶叫し、頭が真っ白になる俺。
 やばい、どうしよう……。
 幸いなことに冒頭のセリフはしっかりと覚えているし、人物の特徴を掴むために何度も演じ方を考えていた。だが今回はそれを披露することになる。人と話すことはもちろん、前に立つことも苦手な俺が、急に演技しろと言われてできるもんじゃない。
 その場で突っ立っていても仕方ないので、階段を使い舞台へあがりながら、セリフや今までの考えをもう一度まとめる。でも上手くいかない。パニックになりすぎてしっかり考えられない。手足、もはや体までもが震え、心臓の音と呼吸が速くなるのを感じる。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
「暁斗くん」
 突然右肩にポンッと手を置かれ、体の震えが収まる。驚いて振り向くと、高華さんだった。大人びた声で、俺を落ち着かせてくれる。
「大丈夫、大丈夫。君ならきっと上手くやれるから、自分を信じてみて。怖いのもすごくわかるけど、仮に何かあっても、みんな受け入れてくれる。失敗なんて、して当然なんだから」
 失敗なんて、して当然……。
 そうだ、さっきまで何を見ていたんだ。高華さんだっていろんな助言をされていたじゃないか。完璧じゃなくていい。やれることをやるんだ。
「ありがとう、ございます。かなり落ち着きました」
 胸に手を当て、心の底から感謝を伝えると、高華さんは肩から手を離し、笑顔で背中を押してくれた。
「演技の前に、深呼吸を忘れないでね」
 その一言を置いて、舞台の片側へと避けていった。
 完璧じゃなくていい、やれることをやる。大丈夫、俺ならできる。
 速い心臓の音を頭の片隅に置きながら大きく息を吸って、吐く。
 そして俺は、言葉を紡いだ。

 演技を終え、高橋さんたちのいる舞台下に一礼する。そして拍手と労いの声が上がる。
 やりきった、自分が今できることを。途中で一度だけセリフが飛んだが、すぐに立て直すことができた。だんだんと場が静まってくると、高橋さんが突然話し始める。
「非常に良い演技だったよ。正直、演劇未経験だからどうだろうと思っていたが、それを疑ってしまうほど良かった」
 あれほどにまで厳しかった彼にここまで好評だったことはすごく嬉しかった。それに自分でも上手くやれているということを知って自信に繋がった。
「だが、僕の思っていた人物とは、イメージが少し異なっていた。でも、それはそれですごく良かったよ。オーディションまで待たなかったことを後悔するくらい。新しく生まれた考えは、これからの参考にするよ」
 俺は心の中でガッツポーズをした。高橋さんの心を少しだけかもだけど掴めた。
 高橋さんをや、最後まで見守ってくれた方々にもう一度深くお辞儀した。「ありがとうございます」と声にしたつもりだったが、達成感や上手くできた感動に揉まれて声にならなかった。
 再び起こる拍手に少し照れながら舞台から降りると、部活終了のチャイムが鳴った。次回の練習もまた体育館であるということを聞いて、各々が帰宅の準備を始める。
 俺はできるだけ早いうちにと思い、高華さんのもとへ向かう。
「あの、ありがとうございました。おかげさまで、とても良い演技ができました」
「全然いいよー。それに私は何もしてないよ。あれは暁斗くんの実力。めっちゃすごくてびっくりしちゃった」
 どれだけ感謝を伝えても、「私は何もしてない」と言って聞いてくれなかった。「これからも頑張ってね」と言葉を残して帰っていった。
「がんばったな」
 たった一言、肩を叩いて去っていった。突然のことで反応できなかったが、急いで振り返り、「ありがとうございます」と背中に伝えた。先生はこちらに振り返らず、手だけを挙げてそのまま体育館を出ていった。
「お疲れ様、暁斗くん」
 体育館を出た先で、桑原さんが待っていた。
「ありがとう。練習に付き合ってくれてたのも結構効いたと思う。本当にありがとう」
 自然と並んで校門をくぐる。一緒に練習をするようになって以来、ほとんどこうして二人で帰っている。
「そんなに褒めないでよ……。照れるって」
 彼女は俯きながら言葉を零す。僅かに見える顔から、頬が紅潮しているのがわかる。
 その後も、他愛のない話をしながら、お互いの家への分岐点で別れる。演劇を始めてから、毎日が充実しているのがわかる。それもこれも全部桑原さんが演劇に誘ってくれたおかげだ。本当に感謝しないと。
 今日は多くの人に支えてもらった。そしてそれだけ期待されていることもわかった。応えられるように、最善を尽くさねば……。

2. 個性に満ちた演技

「……雨、止まないね。この時間は降るはずじゃなかったのに」
 桑原さんががっくりした様子で言った。
 彼女と行ったあの公園のまた同じ場所で、演劇について話していた。かなり良いなと思った場所なので、時々ここで話している。……とは言ってもまだ三回目なのだが。
 今日は本当は集まる予定じゃなかった。だが珍しく晴れていたし、ネットの天気予報でも降水確率は極めて低かったので、誘いには迷うことなく頷いた。そして今、見事にその低確率を引き当てたわけだ。
「梅雨の時期って、何でハズレやすいのかな」
 素直に思った疑問をぽつりと口にすると、彼女はクスリと笑った。
「暁斗くんって、着眼点すごいよね。確率のことなんか誰も考えないよ。頭がいい人はやっぱ違うなぁ」
「そ、そうかな。成績もそんなに良い方ではないんだけど……」
「本気出してないだけでしょー」
 そう言ってまた笑っている。
 冗談抜きで本当に成績は良くない。かと言って悪くもない、ものすごく平均的。
 何度か点数を上げようと思ったことがあり、テストの二週間ほど前にはしっかり勉強をしていた。これでは足りないとわかっていても、やっぱりそれより早く始めるのは難しい。なんか、気が全然乗らないのだ。そんな予想は毎度的中し、結果は伸び悩んだまま。自分から計画を立てて、その通りに実行して結果が出せる人は本当にすごいと思う。
「そうだ、今週の日曜、空いてる?」
 止まない雨を眺めていると、彼女がこちらに向き直って聞いてきた。
「……空いてると思う、けど」
「よかったー。実はね、気になるサイトを見つけて……」
 スマホを取り出した彼女は、開いたサイトをこちらに向ける。
「これ、一緒に行かない?」
 フォントや背景から手の込んだサイトであることがわかる。そしてそこには、『舞台化決定!』の文字。
 この某大ヒット映画の舞台化は、ニュースでも報道されていた。気になってはいたが、てっきり東京とかでしか公演しないと思っていたので、是非とも観たい。
「いいね、行きたい。……けどこれチケットとか必要なんじゃない? もう全部取られちゃってそうだけど……」
「そ、それがね、ちょうど二枚確保してるんだぁ。誰と行こうか迷ってて……」
 異様に早口で、目が泳いでいる彼女によって取り出されたチケットは、微風によりゆらゆらと揺れる。そんな奇跡があるのかと、どうしても疑ってしまう。もしかしたら、本来は俺じゃない誰かと行こうとしてたパターンなのかもしれない。そうなのであれば、流石に申し訳ない。
「本当は誰かと一緒に行くためのものじゃないの? そんな大切なチケットを僕がいただくなんて……」
「ち、違う違う! 別に先約がいるわけでもないし、私は暁斗くんと……」
 後半はモゴモゴとしていて聞き取れなかった。彼女は焦っているのか、喋る速さは勢いを増していた。
 一瞬断ろうかと思ったが、ここまで誘ってくれているのを断るのは却って申し訳ない。行きたかったものだしここは甘えてしまおう。
「じゃあ、遠慮なくいただきますね。本当にありがとう」
 そう言って彼女が持っていたチケットをそっと受け取り、鞄へしまう。
「あっ。雨、止んだ」
 彼女の呟きを聞いて視線をずらすと、さっきまで降っていた雨が嘘みたいになくなっていた。一向に止む気配がなかったのに……。
「また降り出しちゃうとまずいから、今日はもう帰ろうか」
 せっかく止んでくれたんだ。このタイミングを逃すわけには行かない。桑原さんが風邪なんか引いたら、今日集まったことをひどく後悔するだろうし。
「待って!」
 鞄を持って立ちあがろうとした時、彼女は急に大きな声を出していった。びっくりして振り向くと、「ご、ごめん」と言って話を続ける。
「く、詳しい予定とかも立てたいから、連絡先、交換しない……?」
 恐る恐るといった様子で彼女は言葉を零す。思えば今まで交換していなかったし、何かと不便なことが増えてしまいそうだ。
「あ、うん、いいよ」
 スマホを取り出し、お互いのメッセージアプリの登録番号を教え合う。登録が完了すると、『よろしく!』という可愛い犬のスタンプが送られてきた。
「よし……。ありがとう、暁斗くん。またちゃんと決めようね」
「うん。こちらこそ、誘ってくれてありがとう。楽しみにしてます」
 互いが感謝を伝え合い、「また明日」と言ってお互いの帰路に着く。

 家に着いてもらったチケットを鞄から取り出し、眺めながら今日のこと思い出す。
 なんだろう、この感情は。
 何かが引っ掛かっているというのか、よくわからない。
 でも間違いなく言えるのは、彼女といると本当に楽しくて、時間はあっという間に過ぎていく。
 そして、また会いたい、次はいつだろうと考える自分がいる。
 演劇を好きなのか、はたまたそれは……。いや、それはダメだろう。
 また想いに蓋をしたが、これはしなければならないと思う。そうしないときっと、後悔する。
 それからの日々、スマホの液晶を点灯させるたびに、彼女からメッセージが送られてこないかな、と妙に心がざわつくことが増えた。彼女の名前を見つけるだけで、脈は異様に加速する。
 この思いの正体もまた、蓋をした感情からなのか。それとも、ただ早く演劇が観たいだけなのだろうか。

 公演当日。今日は梅雨に似つかない快晴だ。雨ばかりが続いていたので、久々に浴びる太陽の日差しが夏のように感じる。もうあと二日で七月を迎えるので、もうほぼ夏みたいなものか。
 約束をしてから今日までの三日間、とても長く感じた。演劇を生で見るのは久しぶりだし、そもそも回数も少ない。楽しみで仕方なかった。
 桑原さんとは、あれから何度か連絡を取り合って、今向かっている互いの最寄駅集合になった。演劇の会場は、その駅から県の中心部へと向かえば徒歩ですぐに着く。一時間ほど電車で揺られるが、背に腹は変えられない。
 駅が見えてきたところでスマホが震える。駅の外の隅の方で立ち止まり、壁にもたれるようにして確認すると、桑原さんから『少し遅れます!』とだけ来ていた。急いで来て事故に遭ったりでもしたら大変なので、『ゆっくりでいいよ』とだけ返信する。すぐに既読がついたが、彼女のことだからものすごく急いで来そうだな。
 五分ほど待っていると案の定、桑原さんが走ってこちらに向かっくる。彼女は肩で息をしながら謝罪する。
「全然気にしなくていいよ。電車もあと十分ぐらいあるし」
「あなたは……優しすぎです」
 荒い呼吸を整えながらそう零す。五分やちょっとで怒る方がどうかしてると思うのだが……。それに俺はチケットを取ってもらった身だし、文句なんて言えるはずない。
 少し休憩してから改札を抜け、数分待って到着した電車に乗り空いている席に並んで腰掛ける。電車の中で気まずくなったらどうしようと思っていたが、そんな不安はすぐにかき消された。
「暁斗くん、めっちゃお洒落だね」
「それを言うなら桑原さんだって……」
 そう言うと、突然桑原さんがクスクスと笑い始めた。
「暁斗くん、もう『さん』って呼ばないでよ。『鈴』って呼び捨てでいいからさ」
 言われて気づいたが、確かにずっと「桑原さん」と呼んでいた。一輝以外の人たちはみんな苗字とさん付けで呼んでいたので、特に違和感がなかった。
「わかりました。……鈴、さん」
「癖が抜けてないよ。……慣れるまでかかりそうだね」
 呼び捨ての違和感が思いの外すごくて恥ずかしがっていると、鈴さんは車内だと言うのに声を出して笑っていた。人が少なくてよかった。ここからさらに増えていくのだろうから、そこではどうか抑えていただきたい。
 どうにかして話題を変えたいと思い考えていると、どうしても解消しておきたかったことがあったので、忘れないうちに話を切り出す。
「そういえば、チケットの費用っていくらだった? お金を返したいんだけど……」
「いや、いいよそんなの! いらないから大丈夫!」
「それは流石にできないよ。演劇の席って結構高いって聞くし」
 俺が演劇を観ることの少なかった理由の一つ。一番良い席で一万円ほど。大劇場では平均でもそれくらいだし、中規模でも六千円ほどはする。今回俺らが向かう場所はそこそこ大きいはずなので、費用はかなり高いはずなのだ。
「本当に大丈夫だから、気にしなくていいって」
「タダでもらうわけにはいかないよ。申し訳ないって」
 そんな押し問答が続く。ところどころで彼女は、「近所のおばさんにもらったものだから」とか言っていたが、嘘であることが全て顔に出ていた。
 なんとか支払いたい俺と、意地でも受け取りたくない彼女の必死の攻防は、電車が動き出して二十分くらい経つまで続いた。その結果、折れたのは俺だった。
「ほ、本当にいいの……?」
「全然いい! 私が勝手に誘っただけだもん!」
「あ、ありがとう」
 素直な感謝の気持ちと、本当にこれでいいのかという疑問と、なんか悪いことをしたなという罪悪感が混ざり合った。
 その後はくだらない雑談が続いて、退屈することはなかった。だがこの混ざり合った変な感情は、ずっと心に引っ掛かり続けた。

 電車を降りると、都心部というのも相まってかなり暑く感じる。雨が続いていたこともあってじめじめしている。
 駅から徒歩数分で着く劇場までやってくると、多くの人が入場していた。ちょうど開演十五分前なので、今さっき受付が始まったのだろう。入っていく人たちを見ていると、年齢幅は結構広いみたいで、親子で来ている人もいれば、かなりご高齢な人も来ている。そして大ヒットの舞台化なだけあって人数が多い。
「こんなに人気なのに、どうやってチケット手に入れたの?」
「急用で行けなくなった人とかが、特定のサイトで売ったりしてるんだ。リセール機能って言うんだけど……。あ、違法なやつとかじゃないからね!?」
 念を押すように否定する鈴さん。そんなことがあるのかと、俺は手にしているチケットを見て感心する。この持ち主にはしっかりと感謝せねば。もちろんそれを買ってくれた彼女にも。
 俺たちも準備を済ませ受付に向かう。中へと入っていくと、そこには目を奪われる景色が広がっていた。
 第一印象はとにかくでかい。ステージが大きいのはもちろん、ライトや装飾なんかも新鮮だった。座席は階段上になっていて、ステージ側を向くように弧を描いている。映画館とはまたちょっと、いやかなり違う作りに、俺は圧倒された。
 指定された座席へと向かい腰掛ける。座席の材質にも手を入れているのか、座り心地がとんでもなくよかった。座席を上から見た時、ここはちょうど真ん中ほどの位置で、演者の表情なんかも十分に見えるだろう。 
 座席に着いて開演を待っている合間にも、多くの人が入ってくる。多分八割以上は埋まっているのだろう。もしかしたら満席なのかも。
 新しい景色に感動している俺と対照的に、鈴さんは落ち着いた様子で言った。
「どう? 初めての劇場。とんでもない景色でしょ」
 その問いかけに俺は、声を出すことなく頷く。彼女が言う「初めて」は、きっと大規模劇場のことだろう。演劇は見たことあっても、この規模では観たことない。
 胸を躍らせながら待っていると、注意事項等の開演を告げるアナウンスがかかる。ついに、幕が上がる。

 休憩時間も設けられていたはずなのに、気づけばもう終わっていた。夢中になり過ぎてすごく短く感じたが、確かに三時間ほど経過していた。
 演劇は、冒頭から驚かされることばかりだった。登場する人物の表現がとにかくリアルで、始まってすぐに引き込まれてしまった。それに場面の操作がとても上手だった。声のトーン、表情、態度、行動……。どの場面でも、演者が雰囲気を思うがままに作り出していた。
 それ以上にも沢山あったが、キリがないのでそこは割愛。内容も勿論、本当に面白かった。
 劇場を出ると、照りつける日差しがさっきよりも強く感じた。真昼間のビル街は熱がすごくこもる。真夏はどれだけ暑いのだろうか……。
「近くにいいカフェがあるらしいんだけど、お昼だし行ってみない? 演劇を観た感想とかも聞きたい」
 素直に誘いに乗りながら、用意周到すぎることに感心していた。こんな計画性のある人になりたい。
 彼女に案内されながら歩いていくと、一角のカフェに辿り着いた。外観からすごくお洒落で、ちょっと入るのに気が引けたが、彼女は平気な様子で入っていく。こういうところに慣れているのかな。
 整えられた服装に身を包んだ店員さんに、二人がけの席に案内される。外観だけでなく内装も作り込まれていて、カウンター席もあり席数が多い。他の時間帯はもっと人が来るのだろうか。
「すごいねぇここ。初めて来たんだけど、来てよかったなぁ」
 彼女も店内の様子に驚いているようで、ぐるぐると辺りを見回していた。
「今日のために調べていてくれたの?」
「ち、違うよ! なんか、たまたまネット見てたら見つけただけ……」
 彼女は手を大きくぶんぶん振って否定する。そこまで必死に否定しなくてもいいと思うのだが……。
 タイミングよく尋ねてくださった店員さんに注文を済ませる。お互いあまりお腹が空いていなかったので、少量のケーキセットを注文した。彼女はショートケーキとダージリンティー、俺はフィナンシェとアイスコーヒー。
「暁斗くんコーヒー飲むんだ。私は苦くて好きになれないや」
「甘すぎるものがあまり得意じゃなくて。いい感じに中和してくれるんだ」
 フィナンシェはそこまで甘くないと思うで今回はあまり意味がないかもしれないが、でもやっぱりコーヒーが一番好きかもしれない。あの独特な風味になぜか惹きつけられる。……コーヒーの種類とかは全然詳しくないけれど。
「私と正反対だなぁ。すっごい甘党だもん」
 そんな会話をしていると、思ったよりも早く運ばれてきた。提供の早さに驚きながら、一緒に用意されたガムシロップをじっと見つめる。迷った結果、ちゃんと入れてコーヒーを一口飲む。
「それで、どうだった? 生の演劇は」
 彼女はショートケーキに目を輝かせながら言った。感じたことが多過ぎて言葉を選んでいると、ケーキを頬張った彼女が幸せそうな顔で「美味しい……」と呟く。本当に好きなんだなろう、アニメで見るようなふわふわとしたオーラまで放っている。
「本当にすごかった。あんな風に演技できたらって、何度も思ったよ」
 俺の答えに彼女は相槌を打つと、食べる手を止めて考えるような仕草をしていた。
「暁斗くんは、あまり真似しない方がいいと思うよ」
 まさかの回答に、当然俺は驚愕する。そのあまり飲んでいたコーヒーが咽せた。
「えっ、なんで?」
「いや、確かに取り入れた方が良いところはあるよ。呼吸の仕方もだけど、体の使い方とかさ。でもやっぱり、暁斗くんはちょっと違う。こうなんか……、個性に満ちた演技だからこその良さがあるって言ったらいいかな。つ、伝わってる!?」
 思い返して何を言っているのかわからなくなったのか、彼女は少し恥ずかしそうにしていた。でもしっかり伝わっている。
 彼女のいう「個性」は、どうやって演技に反映させればいいのだろう。やっぱりそのためにも、基礎となる部分は真似した方が良い気がする。
「鈴さん、俺の演技で足りないところって、改めてなんだと思う?」
「あー! やっと名前で呼んだ! ずーっと待ってんだから」
 触れるべきじゃないところを突かれて、「そこはいい!」と照れを誤魔化していると、クスクス笑いながらもしっかりと考えてくれているみたいだ。ショートケーキの最後の一口を楽しみ、アドバイスをくれる。……食べるの早いな。
「さっき少し出たけど、体の使い方かな。例えばだけど、淡々と冷酷に怒る場合と、怒鳴るように怒る演技は違うでしょ? その時に、まぁ声のトーンとかも大事なんだけど。怒鳴るときは、何か物を叩きつけるような動きをしてみたり、大きく息を吸ったり……。とにかく細かい部分まで体を動かすと、結構印象変わるでしょ?」
 とてもわかりやすい例と指摘に感謝しながら頷き、活かせそうな部分を探る。何個か思い当たるので、家に帰ったら確認してみよう。
「他には何かある?」
「ううん、あとは本当に細かいことだし、一気に詰め込むのも良くない。だから、とりあえずこれからの課題はそれになるかな」
「……ありがとう。頑張って取り入れてみる」
「がんばぁ! また何かあったらいつでも聞いてね!」
 彼女は胸に手を当てて、とても誇らしげに言った。
 
 店を出たのは約一時間半後のことだった。お互いの食事が終わった後も、何気ない会話が続いてつい長居してしまった。支払いを両者譲らず少し揉めて、結果しっかり俺が払った。ここまでしてもらって払わないわけにはいかない。とてもいい場所だったので、またいつか訪れたい。
 改札を抜けて、ホームに到着した電車に乗る。朝はものすごく人が乗っていたのに、今は全然人がいない。通勤時間や帰宅時間にはやっぱり多くなるのだろう。いや、今日は日曜だしあまり関係ないか。現在三時過ぎ。増えないことをただ祈る。
 来た時のように、二人自然と並んで座る。話題は尽きずに弾み続ける一方で、全く退屈しなかった。
 ビルが建ち並んでいた景色はやがてなくなり、いつもの見慣れた光景が見えてくる。その途端になんだか喪失感が湧いてくる。この時間もずっと続くわけではないのだと思い知らされたから。
「今日はありがとう。すごく楽しかったし、参考になったよ」
「な、何も感謝されるようなことは……。こちらこそありがとう、すっごく楽しかった」
 彼女の言葉を最後にお互い俯き、黙り込む。まもなくして、駅に停車するというアナウンスがかかる。動けない俺とは反対に、時間は動き続ける。
 何も話せないまま停車し、俺たちは流れるように降車して改札を抜ける。
 最初に待ち合わせた場所で、もう少しだけ一緒に居たくてぽつりぽつりと会話をしたが、どこかぎこちなさが隠しきれなかった。重苦しい雰囲気の中、彼女は少し怖がるような表情で言った。
「また、誘ってもいい、かな?」
「う、うん。また、いつか」
 そう伝えるとともに、彼女はみるみる安堵の表情に変わり、やがて笑顔になる。
「やった。じゃあ、また明日ね!」
 帰っていく彼女に手を振りながら見送る。駅に一人残されて、様々な感情が生まれる。
 どうして、こんなに楽しく感じるのだろう。
 どうして、また会いたいと思うのだろう。
 ずっと一人が好きだった。誰かと一緒に、しかも二人なんて地獄でしかなかった。なのに、どうして……。
 とても楽しかった。でもよくわからないこのもどかしさが気持ち悪い。
 次はいつになるだろう。もしかしたらもうないのかな。
 俺は煮え切らない気持ちを抱えて、帰路についた。

3. 弱い人間

「いじめられてた? 鈴さんが?」
 昼休み、昼食を食べ終え授業の準備がてら鈴さん達と話していると、衝撃的な事実へと繋がった。
「ほら、困ってるじゃん。だから言わないでって言ったのに。てかいじめじゃないし、嫌がらせだし」
 頬を膨らませてむすっとしている鈴さんに、「ごめん、ごめん」と謝りながらも、北上さんは詳細を説明しようとしてくれる。だが不安だったのか、ここから先は鈴さん自ら教えてくれた。
 時を遡って、彼女が演劇に出会う前の小学四年生のとき。
 幼い頃から声が特殊だったらしく、「かわい子ぶっている」、「気持ち悪い」と言って嫌がらせにあったらしい。本人は嫌がらせと言っているが、知らされたその内容は、俺からしたらもう立派ないじめだった。あまり言葉にしたくない。
 大きくなるにつれて声は少しずつ変わっていき、今に至るという。辛かった時、北上さんの存在もあってのことだったが、やはり一番は演劇と出会ったことだった。これを聞いた北上さんは、「私より演劇を取るんだ! ひどい!」と言って鈴さんにコツンと頭を叩かれていた。嫌いだった自分の声も自然と嫌いじゃなくなり、いつか観た彼らのように演技がしたいと思うようになったらしい。
「そんな過去が……」
 その一言だけ呟いて、何も言えなくなってしまった。だって俺よりも辛い思いをしているではないか。こんな思いをしても立ち直れるって、すごい。それと同時に自分の抱えているものなんてちっぽけなことなんだと気付かされた。
「何も言わなくなっちゃったじゃん! 香織のバカ!」
 鈴さんはぽんぽん北上さんを叩く。
 北上さんが懸命に謝り鈴さんを(なだ)めていると、鈴さんが先生から呼ばれて離席する。残った彼女らは、鈴さんと距離ができたことを確認しているようだった。何か聞かれたくないことがあるみたいに。
「暁斗、鈴を頼む」
「え、えっ? ど、どういう……」
 険しく、真剣な表情を浮かべ、俺の瞳を一心に見つめる。三つの視線が向けられるなんて、一体何を任されるんだ……。
「鈴はああやって言ってたけど、実際は全てが終わったわけじゃないんだ。中学も高校も、同じような理由で避けられるようなことが珍しくない。もちろん私たちだってなんとかするけど、どうしても限界がある。その時は、暁斗にもお願いしたい」
 あんなに良い人なのに、こうして虐げられ辛い思いをする。そんな事実に少し苛立った気持ちを抑え、彼女らと心から向き合う。
「役に立たないかもだけど、協力するよ」
 途端に表情が柔らかくなる。安心した様子を見せ、どこか重くなっていた雰囲気も消えていく。
「まじありがと。助かるよ」
 肩をポンと叩いて、皆自席に戻っていく。もうまもなく授業が始まる。
 俺より辛い人がたくさんいる。鈴さんの話を聞いて思い知らされた。心の片隅ではわかっていたのだろうが、きっと今までその事実から逃げ続けて来たのだ。自分だって辛い思いをしていると気づいてほしいが故に。
 自分のことしか考えられないこんな俺が、本当に大嫌いだ。

「香織たちの話、気にしなくていいからね?」
 鈴さんと一緒に帰っていると、第一声がそれだった。
「変に慰められると余計辛くなるし……」
 彼女はぶつぶつと呟いている。でも言っていることはよくわかる。実際に俺もそう思ってしまうだろう。
「でも、本当にすごいね。立ち直れるなんて」
「全然……すごくなんかない。まだ残ってる部分もあるし、苦しい時なんていっぱいある。それに、香織や暁斗くんがいなくなったら、きっとまた戻っちゃう」
 少し遠くを見るような目でゆっくりと語る。長い月日を経て、やっとの思いで辿り着いた彼女なりの答えなのだろう。
「結局、私は誰かが居てくれないと何もできない。他人任せの、弱い人間なんだよ」
 弱い人間……。脳内でそれを反芻する。俺もその部類に入るのだろう。それにこんな人でも弱い人間という裏の一面を持つことに改めて気付かされる。
「みんな人間は弱い。それを隠すために、私たちは努力する。その中で私は、弱い部分が強すぎただけ」
 弱い部分なんて簡単に隠せる。俺はずっとそうしてきた。表の面がこんなに反対でも、裏に一つの共通点があると知って、不謹慎かもしれないが少し嬉しい気持ちになった。自分だけじゃない。意外と身近にいるんだ。
「暁斗くんも、何かあったら頼っていいからね。私たちみんな協力するから」
 しっかりと目線を合わせて訴えてくる。俺はその圧に負けた。いや、元々対抗するつもりはなかったのだが。
「うん、その時は遠慮なく。多分ないと思うけど」
「わからないよー? 人生色々あるからね」
 彼女はまるで、人生二周目かのような発言をする。そして妙に説得力がある。
 その後は話題ががらっと変わって適当な雑談をして別れる。
 鈴さんはやっぱり強い人だな、と心の底から思った。あんな考えを持てるなんて、あんな風に生きるなんて、俺にはできない。
 彼女と会うたびに、いつも何か変えられているような気がする。
 俺は受け取ってばかりで、何も届けられていない。
 何ができるのだろう。
 何か、できるのかな。
 何か、できているのかな。
 葛藤か、疑問か、はたまた別の感情か。この感情はずっと支配を続け、果てに来る悪夢にも影響を及ぼした。