現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

夜の電車。

車内は、まばらな乗客と微かな揺れだけが残っていた。

飛鳥は、窓に映る自分の顔を見つめていた。

表情が暗いわけでも、笑っているわけでもない。

ただ、疲れていた。

心がずっと、何かと闘い続けていたから。

(……何が正しかったんだろう)

あのときの選択。

“演技”という言葉で、遥真の想いを覆い隠してしまった瞬間。

あの距離感。

あの眼差し。

ただのセリフではなかったことは、言われなくてもわかっていた。

過去の恋。

信じて、裏切られて、壊れてしまったあの記憶。

心の深い場所に棘のように残る鷹野の存在。

遥真の言葉。

真っすぐで、優しくて、誠実で——でも、それだけに怖かった。

怖いほど、ちゃんとしていた。

あかねの存在。

笑顔の奥に何を秘めているのか分からない、油断できない相手。

その手のひらで誰かを転がすことに、少しも罪悪感を感じていないような女優。

そして鷹野。

無言の圧力。

過去を知っているがゆえに、何も言わずとも心を締めつけてくる存在。

「君は、俺からは逃げられない」——そう言われた日のことが、ふと脳裏をかすめた。

(私は……このままずっと、誰のことも信じられないままでいるの?)

電車の窓越しに見える、静かな街並み。

誰かが待っている家。

温かい言葉。

差し出された手。

思い出すのは、遥真が言ったあの一言だった。

「怖いままでいいです。俺、逃げませんから」

心がふっと揺れた。

信じることは、勇気なんだ。

何かを期待することでも、誰かに甘えることでもない。

ただ、自分の心に素直になるという選択。

本音を口にすることは、簡単じゃない。

けれどそれが、心の鍵を開ける一歩だとしたら——

飛鳥はそっと手帳を取り出した。

脚本の走り書きが残るページに、今日の自分の気持ちを短く記した。

「信じたい」

それだけで、少しだけ胸が軽くなった。

(信じて、踏み出してもいいの……?)

脚本を書くことと、恋をすることは違う。

脚本なら、何度でも書き直せる。

でも、現実はそうはいかない。

だからこそ、怖い。

けれど、だからこそ——美しい。

もう一度だけ、信じてみたい。

今度こそ、自分の手で、この気持ちを綴ってみたい。

誰かに届けるためじゃない。

誰かと同じ未来を描いてみたいと、心から願う自分のために。

いまの私はまだ、台本の途中。

結末はわからない。

けれど、この続きを書いてみたいと、初めて思えた。

信じることで壊れることもある。

でも、信じなければ、何も始まらないまま終わってしまう。

台本のなかの主人公たちに与えてきた勇気を、今度は自分自身に与える番だ。

たとえ誰にも届かなくても、無様に終わっても。

それでも、“信じるという選択”をしたという事実だけは、何よりも強く、私を支えてくれる気がした。

電車が最寄り駅に近づいていた。

飛鳥は静かに立ち上がった。

ホームに向かって歩き出しながら、自分の足音がやけに大きく響くことに気づく。

誰もいない夜のホーム。

けれど、その孤独が、今夜だけは少しだけ優しかった。

“信じたい”という想いが、背中をそっと押してくれるように思えた。

そう思えるだけで、ほんの少しだけ、世界があたたかく見えた。