現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

沈黙が続く控室。

触れそうで触れない距離のまま、遥真は飛鳥をじっと見つめていた。

まるで、逃げ道も、目の逸らし方も与えないように——けれど、決して力で押しつけることのない眼差しで。

飛鳥の背は、まだ壁に預けられたままだった。

彼の体温が、空気越しにじんわりと伝わってくる。

そのぬくもりの輪郭が、心の中で境界線を曖昧にしていく。

「……俺」

遥真の声が、ふいに割れた。

抑えていた何かが、溢れ出すように。

「俺、演技じゃなく、飛鳥さんに本気で……本気であなたに恋しています」

その言葉は、まっすぐに、荒々しくも優しく、飛鳥の胸の奥に突き刺さった。

空気が止まった。

頭の中にあるすべての音が遠のいて、心臓の音だけが反響する。

「……え」

たった一言、ようやく出た反応。

けれど、視線を合わせることができなかった。

遥真の言葉が本物であることが、痛いほど伝わってくるから。

だから、飛鳥は視線を逸らしたまま、無理やり笑った。

「……演技の入り込みすぎね」

わかってる。

今の言葉が台本の一節ではないこと。

何度もリハーサルしたような台詞じゃないこと。

でも、認めてしまったら、崩れてしまう気がした。

自分の役割、立場、過去、そしていまの関係——すべてが、崩壊してしまう気がした。

心臓が跳ねた。

セリフでは、こんな風に震えたりしない。

こんな風に、身体の奥が熱くなることなんてない。

それでも、ごまかすしかなかった。

言葉にしてしまえば、もう引き返せなくなる気がして。

「……そうですね、じゃあ、演技ってことにしておきます」

遥真は何も言わなかった。

ただ、静かに頷いた。

その頷きが、「それでもいい」と言ってくれているようで、余計に苦しくなった。

(……どうしてこんなに、優しいの)

飛鳥は、ただ黙って、胸の奥に渦巻くものを抱えたまま、その場を離れた。

本当は、抱きしめ返したかった。

本当は、「私も」と答えたかった。

でも、今はまだ、怖さの方が強かった。

部屋を出てからも、胸の奥がじんじんと疼いていた。

ドアを閉めたはずの控室のぬくもりが、まだ背中に張りついている。

歩きながら、涙が出そうになるのをこらえる。

遥真の声が、何度も何度も脳内でリフレインする。

「俺、本気であなたに恋しています」

心がそのたびに跳ねる。

これはもう、演技じゃない。

自分の反応が、何よりもそれを証明している。

それでも、飛鳥は自分の感情に名前をつけることができずにいた。

ただ、確かに震えていたのは心臓だけじゃなかった。



その夜。

飛鳥はひとり、帰宅後の暗い部屋でソファに座っていた。

体には、まだ温もりが残っている気がする。

スマホの画面を見つめながら、遥真からのメッセージも電話もないことに、なぜかホッとしていた。

でも、シャワーを浴びても、あの空気がまだ肌に残っているような気がしてならなかった。

シャンプーの泡が目にしみても、それが涙なのか判別できなかった。

布団に入っても眠れず、繰り返すようにその言葉を思い出す。

“本気で恋している”

あの距離、あの声、あの眼差し。

全部が、まだ胸に残っている。

飛鳥は目を閉じながら、ただ小さく唇をかんだ。

(どうして、あのとき、ちゃんと向き合えなかったんだろう)

そう思った時には、一筋、静かな涙が枕を濡らしていた。

明かりを落とした部屋の天井を見上げながら、飛鳥は静かに息を吐く。

このまま逃げるのは、もう違う気がしていた。

でも、進むには、怖さも一緒に連れて行かなければいけない。

“本気”という言葉を、今度は自分の口から言えるように。

まだ言葉にできない思いが胸の内で静かに、けれど確かに熱を帯びていた。

体を起こし、サイドテーブルのペンを探す。

台本の余白に、書くことすらためらっていた言葉が——ようやく滲みはじめる。

書きかけのシーンに、ペンを走らせる。

——誰かが、背中から抱きしめてくれる瞬間。

——言葉よりも体温で、心がほどけていく時間。

それは、恋の始まりではなく、再生の始まりだった。

飛鳥の手は、止まらなかった。

涙を拭いて、微笑むヒロインの表情を、ようやく描ける気がした。