現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

まだ抱きしめられていた飛鳥の耳元で、遥真の声が落ちてくる。

「逃げないで。俺が本気だって……わかってますよね?」

その声は、静かでありながら、どこか切羽詰まっていた。

飛鳥の呼吸が少し乱れる。胸が苦しくなる。

わかってる。

ずっとわかっていた。

遥真が、ただの“演技相手”でも、“共演者”でもないこと。

本気で向き合ってきたことも。

だからこそ、簡単には答えられない。

怖かった。

誰かの真剣な思いに正面から向き合うことが、こんなにも苦しいなんて。

誰かの優しさに、自分がどれだけ飢えていたかを、気づきたくなかった。

「……もう、放して」

そう言うと、遥真の腕が一瞬だけ動いた。

けれど、完全には離れない。

代わりに、さらに低い声で、彼が問いかけた。

「じゃあ、放す前に……最後にひとつ、教えてください。──俺のこと、どう思っていますか?」

静寂。

心臓の音がやけに大きく響いている。

答えたら何かが変わってしまいそうで、飛鳥は瞬間的に口を閉ざす。

けれどその一言に、無意識に振り返っていた。

振り返った先にあったのは、怒りと悲しみが混じるような、遥真の目だった。

その目は、優しさだけではなかった。

飛鳥が何も言わずに逃げようとしたことに対する、深い苦しみと怒り——それを押し殺すような複雑な光が宿っていた。

「なんで……何も言ってくれないんですか」

その目に耐えきれず、数歩後ずさろうとしたとき——

背中が控室の壁にぶつかった。

逃げ道をふさぐように、遥真が一歩詰め寄る。

壁に押しつけるように、けれど決して触れないギリギリの距離。

至近距離で、互いの息が絡まる。

飛鳥の中で、何かが壊れそうだった。

(この距離、逃げたくない。でも、認めたら……壊れてしまう気がして怖い)

喉の奥で言葉が震える。

視線が迷う。

遥真の目は、真っすぐだった。

まるで、飛鳥の“本音”をすべて受け止める覚悟をたたえていた。

そして——

唇が触れそうな距離まで近づいてきた。

飛鳥は目を閉じかける。

そのとき。

遥真の動きが止まった。

ほんの数センチ手前。

触れようとしながらも、触れなかった。

その不器用な優しさに、胸が締めつけられる。

(この人は、本当に……怖がる私を、壊さないようにしてくれてる)

たったそれだけのことで、心が少しだけ救われた気がした。

怖さを無理に拭い去るんじゃない。

抱えたままでもいいと、言ってくれる人がいることが、こんなにも力になるとは思わなかった。

「……怖いの、いまもずっと」

それでも、声に出すことができた。

その声は震えていたが、確かに自分の意思だった。

そして、遥真もまた、何も言わずにその言葉を受け止めてくれた。

彼の目が、ただ小さく細められた。

まるで、“ありがとう”と無言で告げてくれたように。

その沈黙が、どんな慰めの言葉よりも、優しかった。