現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

——楽屋の鏡前で、柊あかねは艶やかな唇に淡いピンクのグロスを引いた。

表情はにこやかに、しかしその奥に潜む瞳は、獲物を見定めるような冷静さを湛えている。鏡越しに自分の顔を見つめながら、あかねはゆっくりとつぶやいた。

「……美園飛鳥、か。今度のライバルは、ずいぶんと地味な人が相手ね」

彼女が今、興味を抱いているのは、ドラマの脚本家・美園飛鳥。久遠遥真との打ち合わせが多く、現場でも一際長く会話を交わしている相手。

“脚本家”という立場のわりに、妙に彼に近い。彼女の冷静な目は、そんな“距離”を見逃さなかった。

「……ああいう女が、男を落とすタイプなのよね。気取らず、媚びず、だけどずっとそばにいる。……私がいちばん苦手なタイプ」

目元にわずかに毒を滲ませながら、あかねはスマホを手に取った。

——まずは情報戦。

SNSの裏垢で、さりげなく「#美園飛鳥 #パクリ疑惑」などというハッシュタグを使った囁き投稿を数件。

“最近見たあの脚本、あれ某海外ドラマに似てる…”
“関係者だけど、美園さんって割と参考資料からそのまま書くって有名”
“盗作ってグレーゾーン多いけど、あれは黒に近い気がするなあ”

もちろん証拠は出さない。ただ、匂わせるだけでいい。
情報の海のなかでは、“それっぽい”噂の方が信じられやすい。あかねはその心理をよく理解していた。

「真面目ぶってる人間ほど、疑惑ひとつで一気に脆くなるのよ」

——次に、現場での印象操作。

楽屋裏のメイクルーム。あかねはわざと声のトーンを少し上げて話す。

「ねえ、聞いた?脚本の飛鳥さん、遥真くんと随分親しいみたいよ。何度も打ち合わせしてるって」

共演者たちは眉をひそめたり、興味深そうに目を合わせたり。それを確認するように、あかねは薄く微笑む。

「……なんか、あのふたりって、“単なる脚本家と俳優”の関係に見えないっていうか。ちょっと……近すぎない?」

そんな言葉を落とすだけでいい。真偽なんてどうでもいい。誰かが噂として囁けば、それはいつか現実のような顔をし始める。

——そして、直接的な揺さぶり。

ある日、控室前。

飛鳥が飲み物を手に廊下を歩いていたとき、あかねがすっと前に立ちはだかる。

「飛鳥さん。ちょっとだけいいですか?」

その声色は柔らかく、しかし不思議な圧を帯びていた。

「脚本、読ませてもらってます。すごく繊細。でも……感情の動き、ちょっと古くない?」

飛鳥の動きが一瞬止まる。あかねは続ける。

「遥真くんって、意外と“今どき”な感覚の持ち主だから。……なんていうか、もっとリアルな“今の恋”を表現できたほうが、彼も演じやすいんじゃないかな」

表情は崩さずに、刃を差し出すように。飛鳥の目がわずかに揺れたのを見逃さず、あかねは一歩踏み込む。

「……あの人、惹かれてるの、女としてのあなたじゃなくて、仕事相手としてじゃない?」

その一言が、じわりと効いたことを確信する。飛鳥の手がかすかに震えていた。

その反応を見て、あかねは確信する。

——ほんの少しでも、自信を削げばいい。
脚本家としての自負を揺るがせれば、言葉も、視線も鈍る。

そのうち、遥真の方から離れていく。何も強引なことをしなくても、じわじわと押し出すだけでいい。

恋は、戦場。
あかねは、無邪気な仮面の下で冷静に勝利の筋を読む。

「ねぇ、遥真くん。脚本って、もう少し甘くてもいいと思わない?」

笑顔で提案するその声に、どこか“飛鳥とは違う甘さ”を滲ませて。あかねは今日も、じわじわと飛鳥を追い詰めていく。

しかしその胸の奥には、かすかにざわつく何かがあった。
遥真の不器用な笑顔。真剣にセリフと向き合う姿勢。あかねに媚びないまっすぐな視線。

——あれを自分に向けさせたい。

いつしか、勝ちたい理由が変わり始めていた。