現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

撮影が開始されてから1ヶ月。

現場には微妙な空気が流れはじめていた。

主演女優・柊あかねの態度が、どこか変わってきたのだ。

「飛鳥さん、このセリフなんですけど……もう少し女の子っぽくならないですか?可愛げがないっていうか、気取ってる感じで、感情に共感できないんです」

飛鳥はその言葉に一瞬、言葉を失った。

彼女の意見は、あくまで建設的な提案として差し出される。

しかし、その奥には何か別の意図が見え隠れしていた。

「そうですね、検討してみます」

表面上は穏やかに答えながらも、心の中には冷たい波が立っていた。

台本を否定されたことではない。

彼女の“視線”の質が、どこか変わっていた。

どこか、静かに探ってくるような。爪を立てる直前の猫のような、柔らかさに隠れた鋭さ。

そして、その夜。

帰り支度をしていた飛鳥の背後で、柊あかねがふと口を開いた。

「ねえ、飛鳥さん。ひとつだけ聞いていいですか?」

「……なんでしょう」

「脚本家と主演俳優が近すぎるって、現場でどう思われると思います?」

飛鳥は固まった。

あかねは、その反応を楽しむように微笑んだ。

「ふふ、気にしてないならいいんです。じゃあ……壊してもいいですか?二人の距離」

その言葉の意味を、飛鳥はすぐには理解できなかった。

けれど、背中を走った冷たいものが、全身に警告を与えた。

言葉の棘は、やがて行動に変わった。

翌日——

遥真のもとにも、あかねの“影”は確実に忍び寄っていた。

「飛鳥さん、鷹野さんと昔付き合ってたらしいですよ?」

控室で水を飲んでいた遥真の背に、あかねの声が滑り込む。

「……しかも、まだ好きみたいですよ?けっこう未練あるって聞きました」

遥真は静かにグラスを置いた。

「誰から聞いたんですか?」

「記者さんから。最近、ちょっと聞き込みされてるみたいですよ?“裏交際”って、言葉にしちゃえば簡単だけど、実際の距離感って、わからないものですしね」

にこやかな笑顔の裏に、鋭い刃が仕込まれている。

遥真は何も言わなかった。

だが、その沈黙があかねには“動揺”と映ったのか、さらに笑みを深くした。

一方、飛鳥は。

記者からの問い合わせが制作部経由で舞い込んできたことで、現場の空気が変わりつつあるのを察知していた。

「脚本家と俳優の関係性に関する問い合わせが来てるって……なんで……」

(私のせいで……?)

心に芽生えるのは、遥真の立場を守らなければという焦り。

ふたりの距離が、作品にとって“ノイズ”になってしまうのではという不安。

せっかく前を向こうとしていた気持ちが、また不安の影に引き戻されていくのを、飛鳥は止められなかった。

(……また、誰かに壊されるのを黙って見てるの?)

自問が胸の中で膨らんでいく。

作品に責任を持つ者として。ひとりの大人として。そして、誰かを想う人間として。

飛鳥は今、試されていた。

頭ではわかっている。冷静でいなければと自分に言い聞かせても、心は正直だった。

あかねの言葉、記者の動き、鷹野の影。すべてが“自分の過去”を利用して、未来を壊そうとしてくる。

けれど、それに負けてはいけない。

遥真を守るために、自分自身の人生を奪わせないために——

ここから、何をどう描くのか。それを選ぶのは、他の誰でもない、自分自身だ。

飛鳥は静かに息を整えた。

そして、ふたたび原稿用紙を開いた。