現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

昼の撮影が一段落したタイミングで、スタッフから控室に呼び出された飛鳥。

「鷹野さんが、少しお話したいそうです」

その名前を聞いた瞬間、胸の奥に小さく冷たい石が落ちたような感覚が走る。

自分が書いた台本に関しての相談かもしれない。

——そう思い込もうとしながら、静かに控室のドアを開けると、そこには背を向けて窓の外を眺めている鷹野の姿があった。

振り返った彼は、笑っていた。

「久しぶりに、こうしてふたりきりで話すね」

「……何か、台本の件でしょうか」

できるだけ事務的に。淡々と。飛鳥は言葉を選ぶ。

けれど、鷹野の返答は、まったく関係のないものだった。

「飛鳥、もう一度、俺の隣に戻ってこないか」

一瞬、時間が止まったように感じた。

「今度は絶対に、手放さないから」

声のトーンは低く、柔らかい。

優しさを装っていた。

けれど、その響きは知っている。

「優しさ」の皮をかぶった、支配のはじまり。

「……鷹野さん、それは……」

言葉がうまく続かない。

後ずさりしようとした瞬間、彼の足音が、半歩だけ近づいてくる。

何もしていない。触れてもいない。

なのに、過去の記憶が一気に蘇る。

“どうして返事が遅いの?”
“俺の言うことが聞けないの?”
“お前のために言ってるんだよ”

あの部屋の空気、スマホの通知音、窓越しの彼の顔——すべてが蘇る。

今ここにあるのは、ただの言葉。

でも、その言葉がどれだけ危険か、自分は誰よりもよく知っている。

(もう、同じ思いはしたくない)

(あんな風に、自分を失ってしまうのは、もう嫌だ)

そう叫んでいるのに、喉が硬直したように、声が出ない。

心が命令しているのに、身体が従わない。

握りしめた拳が震える。

恐怖と怒りと悔しさと、そしてなにより——情けなさ。

「……答えは、出さなくていい。ゆっくりでいい」

鷹野はそう言って、静かに立ち去っていった。

扉が閉まった瞬間、膝の力が抜けて、椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。

残された控室に、ただ冷たい沈黙が残る。

声を出せなかった自分に、飛鳥は深く、腹が立った。

(どうして、言えなかったの?違うと、拒絶すると、一言でも口にできなかったの?)

悔しくて、唇を噛む。

過去に縛られている自分が、あまりにも無力に感じた。

(このままじゃ、何も変わらない……。また、誰かに“決められる人生”に戻ってしまう)

そう思った瞬間、胸の奥がギリギリと音を立てて締めつけられる。

彼に言いたいことは山ほどあった。

「私を所有物みたいに扱わないで」
「もう、あなたに支配されるつもりはない」
「私の人生は、私のものだ」

言葉にすれば、どれもシンプルだ。

でも、それを言葉にするには、あまりにも過去の記憶が重くのしかかってくる。

でも——

(次は、ちゃんと断る。次こそは、怖くても、自分の声で、きちんと向き合いたい)

その決意だけは、静かに、確かに心の中で生まれていた。

飛鳥は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

まだ震えている手を、そっと膝の上で握りしめながら。

心は、ほんの少しずつでも前を向こうとしていた。