現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

その日、飛鳥は撮影現場の見学中だった。

女性スタッフに「ちょっと試してみてよ」と手渡されたのは、普段の自分では選ばないような濃い目のリップ。

「意外と似合うと思うけどなー、ほら、画面越しだと華やかに見えるし!」

軽い気持ちで借りて、軽い気持ちで塗ってみた。

鏡を見ると、ほんの少しだけ“いつもより女らしい”自分が映っていた。

(……まあ、たまにはいいか)

そんな風に思いながら、現場のモニターの前で立っていたとき——

「その色、似合ってません」

後ろから届いた低く、真面目な声。

驚いて振り返ると、そこには遥真がいた。

「え……?」

「飛鳥さんは、もっとナチュラルな方が……いいと思います」

言葉を途中までしか飲み込めないうちに、彼の指先がふいに飛鳥の唇に触れた。

まるでためらいがなかった。

それはキスではないのに、キス以上に心臓を撃ち抜いた。

指の腹で、リップをそっと拭う。

「……ダメだったかな?」

飛鳥がようやく声を出した時、遥真は小さく笑ってポケットから何かを取り出した。

それは、彼が常に持ち歩いている無香料のリップクリームだった。

「……貸します。こっちのほうが、飛鳥さんらしいと思う」

そして、何も言わずに、そのリップを彼女の唇に直接塗ってくれた。

左手で軽く顎を支え、右手でスティックを丁寧に滑らせていく。

言葉よりも、息づかいが近い。

それは、あまりにもやさしくて、あまりにも丁寧で。

触れている時間よりも——

見つめてくる瞳のほうが甘すぎて、息ができなかった。

彼の瞳は、まるで一枚のフィルムのように、飛鳥のすべてを記録するかのような静けさと熱を持っていた。

(……なんで、そんな目をするの?私は、あなたを待たせているのに)

それでも、その手はあたたかくて、やさしくて、拒む理由が見つからなかった。

塗り終えたあとも、彼はすぐには手を離さなかった。

指先がまだ唇に触れている。触れているのに、どこにも力が入っていない。なのに、重くて、熱くて、たまらなかった。

「……やっぱり、こっちの方がいい」

低く、確信のある声だった。

飛鳥は、俯いたまま、返事をできなかった。

けれどその心臓は、遥真の手が離れた後もしばらく、甘く苦しく鳴り続けていた。

その夜、鏡の前に座った飛鳥は、ふと唇に触れた。

リップクリームは、もう落ちかけていた。

けれど、あのときの体温は、まだ指先に、唇に、確かに残っていた。

指でそっとなぞった唇に、思わず微かな震えが走る。

リップの香りはなかった。でも、そこには確かに“触れられた記憶”があった。

頬が熱い。胸の奥がざわめく。

(……変わりたいのかもしれない)

自分で思っていた以上に、誰かの視線を、触れ方を、こんなにも求めていたなんて。

今まで避けてきた“恋”という感情に、ほんの少しだけ触れてみたくなった。

そして彼女は初めて思った。

“こんなにも、誰かの目に映る自分が、愛おしく感じたことはなかった”と。

それは、鏡の中の唇ではなく——心に刻まれた熱の記憶だった。

新しく目覚めた自分が、そっと胸の奥で目を覚ましはじめていた。