現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

「……じゃあ、行ってきます」

食事に行く前、飛鳥は現場の控室でそう言って立ち上がった。

その一言に、遥真はわずかに表情を曇らせながらも、優しく頷いた。

「気をつけてください」

それだけだった。

何も聞かず、何も詮索せず、ただひと言。

その静かな言葉が、かえって胸に刺さった。

(……本当は、行きたくない)

けれど、断れなかった。

あの頃の自分が、まだどこかにこびりついている。

「君の話が聞きたい」と言われたら、どうしても無視できない自分がいる。

レストランは、都内のホテルの中にある格式あるフレンチ。

鷹野は店に慣れた様子で、コース料理の内容を次々と決めていく。

「飛鳥、こういう味好きだったよね。前に食べたとき、すごく美味しいって言ってたから」

懐かしさを装うその口調に、飛鳥は曖昧に微笑むしかなかった。

会話は終始穏やかだった。ワインも料理も美しく、周囲の客たちは優雅に食事を楽しんでいた。

けれど、心はずっと張りつめたままだった。

言葉の端々に、過去の記憶が挿し込まれるたび、まるで心の中に細い針を刺されているような感覚。

途中、飛鳥は席を立ってトイレに向かった。

個室の扉を閉めた瞬間、ようやく肩から力が抜けた。

深呼吸を一度、そしてスマホを手に取る。

そこに、ひとつの未読メッセージ。

【どこのレストランにいるか、連絡ください。迎えに行きたいから】

——遥真くん。

その短い文面に、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。

何も聞かず、何も責めず、ただ「迎えに行きたい」と言ってくれる人。

彼の言葉は、優しさの上にそっと安心を重ねてくれる。



会食は、予定より少し早く終わった。

鷹野が会計を済ませる間、飛鳥は店の外に出て、空を見上げた。

ビル街の灯りがきらめく夜。けれどその光は、どこか遠く、現実感がなかった。

「どうだった?楽しかった?」

と、背後から鷹野の声。

「……料理は、美味しかったです」

飛鳥は微笑んだ。けれど、その笑顔には何も乗っていなかった。

心ここにあらず。それを察してか、鷹野が少し声を低くする。

「飛鳥、またこうやって話せて嬉しかったよ。君のこと、忘れたことなんて一度もない」

それは、懐かしい響きを持っていた。

けれど、今はもう、その言葉をまっすぐには受け取れなかった。

そのときだった。

「飛鳥さん」

名前を呼ぶ声が、思いがけず背後から響いた。

振り返ると、そこには遥真が立っていた。

少し息を切らしている。

「……遥真くん」

「ご連絡、ありがとうございました。迎えに来ました」

そう言って遥真は、鷹野には一切視線を向けず、ただ飛鳥の目だけを見つめていた。

その一言に、鷹野の眉がわずかに動いた。

張りつめた空気のなか、ふたりの男の間に、沈黙が落ちた。

「彼は……?」

鷹野が訊いた。

飛鳥は答えなかった。答えられなかった。

だが、そのとき、遥真が静かに一歩、彼女のそばへと歩み寄った。

「飛鳥さん、寒いので、そろそろ行きましょう」

その手が、何も言わずに差し出された。

鷹野の視線が鋭くなる。

「飛鳥。俺はただ話がしたかっただけだよ。誤解させるようなことはしたくなかった。……帰る必要なんて、ないだろ?」

引き留める声音には、あくまで理性的な色がついていた。

だが、その場に流れる空気には、明確な対立があった。

遥真は、一切鷹野に目を向けない。

ただ、飛鳥だけを見つめている。

鷹野の視線が、遥真の手と飛鳥の表情を交互に見つめていた。

飛鳥は、ほんの一瞬だけ視線を迷わせ——そして、そっとその手を取った。

「……はい」

その瞬間、空気が静かに張り詰めた。

夜の街の騒音が遠のいて、灯りの下でただ三人だけが立ち尽くしているようだった。

「大丈夫です。今日は、もう……」

鷹野が、何か言いかけたが、やめた。

唇を引き結び、そのまま無言で彼女の背中を見送った。

飛鳥はただ、遥真のぬくもりを感じながら、そのまま歩き出した。

彼の隣を歩くことで、ようやく呼吸が整っていくのを感じながら——。