——夕暮れ時、撮影スタジオのロビー。
柔らかなダウンライトの下、ガラス越しに広がるオレンジ色の空を背に、男がひとり立っていた。
鷹野司。
IT業界の若きカリスマにして、圧倒的な存在感を放つ男。美園飛鳥の元恋人であり、唯一“付き合った”相手だった。
グレーのスーツに黒のタートルネック。シルエットは流行を追わないクラシックな仕立てだが、それが彼の静かな威圧感を際立たせていた。手首には控えめな時計、ポケットチーフは絹の白。
そのすべてが、彼の成功と余裕を物語っていた。
飛鳥が仕事終わりに通用口から出てくるのを見つけると、彼はまるで呼吸を合わせたかのように、ゆっくりと歩を進めた。
「……まだ帰ってなかったんだな、飛鳥」
背後からかけられたその声に、飛鳥は振り向いた。その声は深く、低く、鼓膜に残る重低音。飛鳥の足がぴたりと止まった。肌の上に、懐かしい声の振動が乗ってきたような感覚。
「……鷹野さん。どうしてここに?」
「プロデューサーに挨拶がてら、ね」
言いながらも、その視線は飛鳥から一度も外れない。人の懐に入る技術ではなく、ただ“目を離さない”だけで、十分に人の心を掌握してしまう。そんな男だった。
「昔からそうだった。集中しすぎて、時間を忘れる。……でも、それだけじゃないだろ?」
飛鳥は息を呑んだ。彼の目が、まっすぐに彼女を見つめている。
「怖いんだろ。俺に会うのが。まだ、揺れてるんだよ、心が」
彼はそっと彼女の髪に触れた。触れるか触れないかの温度で。
「俺は、今の君を抱きたいと思ってる。もう一度、全部さらってしまいたいって思ってる。……許されるなら、このまま唇を奪いたい」
唇の端に、微笑の影。
大人の余裕と、獣のような本能が同居した、危険な光。
「君がまだ俺を避けてるのは知ってるよ。でも……一度、話そう」
「今さら話すことなんて……」
「あるよ。君が俺を置いていった理由と……いま、そばにいる男のこと」
彼はゆっくりと、懐からシルバーの名刺ケースを取り出した。
その仕草さえも洗練され、指先の動きには無駄がない。反射する金属の光が、まるで“現在の自分”を誇示するように輝く。
「俺は変わったよ。君を追い詰めていた頃とは、違う。……だから、正当に向き合いたい」
飛鳥の視線が揺れる。そこに付け入るように、鷹野は優しく言葉を続けた。
「君の孤独も、苦しみも、全部、知ってる。あの頃、君の台詞を誰よりも理解できたのは俺だけだったはずだ」
飛鳥の目が細くなる。懐かしさ、痛み、そしてかすかな怒り。すべてが渦を巻き、言葉にならないまま彼女の中で暴れていた。
「……あなたはいつも、理解した“つもり”だっただけよ」
鷹野は一瞬だけ静かに目を伏せた。そのままゆっくりと顔を上げる。
「かもしれない。けど、別れたあの日、“守られたいなんて、思ってない”——あれを聞いて、ようやく俺は自分がどれほど傲慢だったか分かった」
彼の声には、確かに悔いがあった。過去を美化するのではなく、反省する重みがあった。
「だから……もう一度、君に正しく関わりたい。ビジネスでもなく、所有欲でもなく、対等な立場で」
飛鳥は何も言えずに黙っていた。
——なぜ今さら。
けれどその言葉は、なぜか声に出せなかった。
彼の存在が、あまりに静かで、あまりに重かったから。
「一度だけ、食事に付き合ってくれないか?昔のままの君でも、今の君でも構わない。ただ、会いたいんだ。あの頃以上に、今の君に」
その声には、押しつけがましさが一切なかった。
大人の余裕と、じわじわと心を溶かす熱があった。
「……考えておきます」
ようやく絞り出した言葉。それは拒絶ではなかった。
鷹野はその反応に満足げに頷き、短く別れの挨拶をした。
「また近いうちに。……君の返事、楽しみにしてる」
そして、夕暮れの光のなかに姿を消した。
飛鳥はその背中を見送りながら、心臓の奥がわずかに熱を帯びるのを感じていた。
柔らかなダウンライトの下、ガラス越しに広がるオレンジ色の空を背に、男がひとり立っていた。
鷹野司。
IT業界の若きカリスマにして、圧倒的な存在感を放つ男。美園飛鳥の元恋人であり、唯一“付き合った”相手だった。
グレーのスーツに黒のタートルネック。シルエットは流行を追わないクラシックな仕立てだが、それが彼の静かな威圧感を際立たせていた。手首には控えめな時計、ポケットチーフは絹の白。
そのすべてが、彼の成功と余裕を物語っていた。
飛鳥が仕事終わりに通用口から出てくるのを見つけると、彼はまるで呼吸を合わせたかのように、ゆっくりと歩を進めた。
「……まだ帰ってなかったんだな、飛鳥」
背後からかけられたその声に、飛鳥は振り向いた。その声は深く、低く、鼓膜に残る重低音。飛鳥の足がぴたりと止まった。肌の上に、懐かしい声の振動が乗ってきたような感覚。
「……鷹野さん。どうしてここに?」
「プロデューサーに挨拶がてら、ね」
言いながらも、その視線は飛鳥から一度も外れない。人の懐に入る技術ではなく、ただ“目を離さない”だけで、十分に人の心を掌握してしまう。そんな男だった。
「昔からそうだった。集中しすぎて、時間を忘れる。……でも、それだけじゃないだろ?」
飛鳥は息を呑んだ。彼の目が、まっすぐに彼女を見つめている。
「怖いんだろ。俺に会うのが。まだ、揺れてるんだよ、心が」
彼はそっと彼女の髪に触れた。触れるか触れないかの温度で。
「俺は、今の君を抱きたいと思ってる。もう一度、全部さらってしまいたいって思ってる。……許されるなら、このまま唇を奪いたい」
唇の端に、微笑の影。
大人の余裕と、獣のような本能が同居した、危険な光。
「君がまだ俺を避けてるのは知ってるよ。でも……一度、話そう」
「今さら話すことなんて……」
「あるよ。君が俺を置いていった理由と……いま、そばにいる男のこと」
彼はゆっくりと、懐からシルバーの名刺ケースを取り出した。
その仕草さえも洗練され、指先の動きには無駄がない。反射する金属の光が、まるで“現在の自分”を誇示するように輝く。
「俺は変わったよ。君を追い詰めていた頃とは、違う。……だから、正当に向き合いたい」
飛鳥の視線が揺れる。そこに付け入るように、鷹野は優しく言葉を続けた。
「君の孤独も、苦しみも、全部、知ってる。あの頃、君の台詞を誰よりも理解できたのは俺だけだったはずだ」
飛鳥の目が細くなる。懐かしさ、痛み、そしてかすかな怒り。すべてが渦を巻き、言葉にならないまま彼女の中で暴れていた。
「……あなたはいつも、理解した“つもり”だっただけよ」
鷹野は一瞬だけ静かに目を伏せた。そのままゆっくりと顔を上げる。
「かもしれない。けど、別れたあの日、“守られたいなんて、思ってない”——あれを聞いて、ようやく俺は自分がどれほど傲慢だったか分かった」
彼の声には、確かに悔いがあった。過去を美化するのではなく、反省する重みがあった。
「だから……もう一度、君に正しく関わりたい。ビジネスでもなく、所有欲でもなく、対等な立場で」
飛鳥は何も言えずに黙っていた。
——なぜ今さら。
けれどその言葉は、なぜか声に出せなかった。
彼の存在が、あまりに静かで、あまりに重かったから。
「一度だけ、食事に付き合ってくれないか?昔のままの君でも、今の君でも構わない。ただ、会いたいんだ。あの頃以上に、今の君に」
その声には、押しつけがましさが一切なかった。
大人の余裕と、じわじわと心を溶かす熱があった。
「……考えておきます」
ようやく絞り出した言葉。それは拒絶ではなかった。
鷹野はその反応に満足げに頷き、短く別れの挨拶をした。
「また近いうちに。……君の返事、楽しみにしてる」
そして、夕暮れの光のなかに姿を消した。
飛鳥はその背中を見送りながら、心臓の奥がわずかに熱を帯びるのを感じていた。



