現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

控室のドアが開く音。スタッフの笑い声。撮影用の照明が静かに点灯する音。

ドラマの現場にいるはずなのに、心はまだ、あの過去の部屋にいた。

そして——彼は今もそこにいた。

鷹野司。

ドラマのスポンサーのひとりとして、頻繁に現場に顔を出すようになった彼は、周囲にはにこやかに、品よく振る舞っていた。

だが飛鳥にだけは、特別な距離で接してくる。

「久しぶりに、ふたりでゆっくり食事でもどう?」

打ち合わせと称して近づいてくる。目の前で、過去のあの“声”で。

「君のこと、忘れたことなんて一度もないよ」

甘く囁くその響きは、過去と同じだった。

けれど、飛鳥は返事を濁したまま、何も言えずにうつむいた。

断れない。

拒絶すれば、また何かされるのではないかという恐怖が、無意識に喉を塞ぐ。

彼の目が笑っていないことを、飛鳥は誰よりも知っていた。

「……はい。検討します」

それだけを、ようやくのように絞り出す。

遠くから、その様子を見つめているひとりの視線。

遥真。

モニター前から目を離さず、しかし視線の端に飛鳥と鷹野のやり取りをとらえていた。

彼は何も言わなかった。だが、その指先が無意識に台本を握りつぶしていた。

(……なんで、あんな顔をしてるんだ?なんで、あの人の前だと、飛鳥さんは笑わないんだ)

飛鳥が苦しんでいることに、遥真は気づき始めていた。

でも、それがどういう意味なのかまでは、まだ届いていなかった。

ただ、心のどこかがざわついて仕方がなかった。

その夜、飛鳥は家に戻っても、鷹野の言葉が耳から離れなかった。

「君のこと、忘れたことはない」

あの声が、壁をすり抜けて部屋の中まで侵入してくるような錯覚さえあった。

そして、スマホには一通のメッセージ。

『明日、空いてたら少しだけでも会えないかな。君の話、ちゃんと聞きたい』

震える指で画面を閉じたあと、飛鳥はテーブルの上にあるマグカップを見つめた。

あのとき、遥真がくれた、何気ないあたたかさの象徴。

何も言わず、何も求めず、ただそばにいてくれた人。

(私は……また、戻ってしまうの?)

心が揺れた。

逃げたはずの過去が、今の自分の足元を絡め取っていく。

拒絶の言葉を言いたいのに、口にできない。

怖い。

優しい顔をして近づいてくる彼の、本当の顔を知っているからこそ——恐怖の方が、記憶よりも強く染みついていた。

そして、そんな自分に、嫌気が差していた。

強くなったはずだったのに。

前を向いて歩いているつもりだったのに。

なのにまた、心が“従う方”へ傾いていく。

そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

心臓が跳ねる。

まさか——いや、考えたくない。

だが、脳裏にはっきりと浮かぶのは、あの声だった。

「……君のこと、守りたいだけなんだ」

守られた記憶なんて、ひとつもなかったくせに。

部屋の中の空気が、少しずつ濁っていくのを、飛鳥は黙って受け止めるしかなかった。