現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

「サプライズだよ」

その日、玄関のドアを開けた飛鳥は、目の前に立つ鷹野の姿に声を失った。

アポなしの訪問。

バイトが終わり、自宅に帰宅した時だった。

「心配で……」

そう言って、彼は目にうっすらと涙を浮かべていた。

「LINEも返ってこないし、電話も繋がらなかったし、GPSでも検知できなかったから。事件に巻き込まれたんじゃないかと思って……」

その言葉のトーンに、責めるような響きはなかった。

むしろ、愛情深く、誠実に聞こえた。

だが、鷹野は手に合鍵を握っていた。

かつて、彼が「非常時のために」と言ってほしいと言ったものだった。

それを、無断で使って入ってきた——その事実が、飛鳥の心を静かに揺さぶっていた。

「勝手にごめん。でも、何かあったらって思ったら、いてもたってもいられなくて」

すでに室内には、彼の靴が揃えて置かれ、キッチンの棚が少し開いていた。

テーブルの上に置いてあった読みかけの小説が、微妙に角度を変えていた。

彼は、待っている間、部屋の中を見ていた。

どれほどの時間、どこを、どんな風に。

「なんか、前と違うハンドクリーム使ってる? 香りが変わった気がして」

「……気づいたの?」

「うん。こういう小さな変化、見逃したくないんだよね」

彼は微笑んだ。だが、飛鳥はその笑顔の裏にあるものを、もう知っていた。

これは、愛じゃない。安心でも、思いやりでもない。

“所有”だった。

彼の視線は、優しさのかたちをして、常に彼女の輪郭を囲っていた。

その日以降、飛鳥は鷹野に会うことが怖くなった。

スマホの着信が鳴るたびに体がこわばり、鍵の開く音が幻聴のように耳に残った。

外出中も、いつ背後に彼が立っているかわからないという不安が、呼吸を浅くした。

次第に、眠れない夜が増えた。

部屋にいるときですら、誰かの視線を感じるようになった。

心の奥に、じわじわと、しかし確実に恐怖が浸食していった。

そして、卒業を間近に控えたある日——

飛鳥は、大学から一通の内定通知を受け取った。

出版社ではなかった。都内でもなかった。地方の小さな編集プロダクション。

けれど、それでよかった。

理由はただ一つ。そこに行けば、鷹野の目の届かない場所に身を置けるから。

逃げるように。息をするように。

彼に別れを告げた日のことは、今でもはっきりと覚えている。

彼は泣いた。

「どうして?君のこと、こんなに大事にしてたのに」

飛鳥は何も言わなかった。

「お願いだから、俺を置いていかないで。……俺以外に、誰が君のこと守れるっていうの?」

「守られたいなんて、思ってない。恋だって、もういらない。だって――物語の中でさえ、どこか虚しく感じてしまうんだもの」

飛鳥は一度、深く頭を下げ、そのまま振り返らずに歩き出した。

彼の“愛”が、いつの間にか彼女の世界をすべて埋め尽くしていたことに、ようやく気づけたから。

そして、もう二度と、自分自身を見失いたくないと、そう誓ったからだった。

遠ざかる駅のホームで、飛鳥は初めて、深く息を吐いた。

ほんの少しの解放感と、胸を締めつけるような孤独が同時に押し寄せてきた。

でも、そのどちらも、確かに“自分の選んだ自由”だった。