現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

静まり返った控室の片隅。

飛鳥は手元の台本を開いたまま、ページをめくることができなかった。

心の奥に波紋のように広がっていくのは、鷹野司という名前だった。

そして——記憶の底に封じてきた、ひとつの季節。

大学時代。新緑が眩しい春の午後だった。

その日、飛鳥はいつものように大学図書館に通っていた。

ミステリー小説ばかりを並べた棚は、彼女にとって避難所のような場所だった。静かで、誰にも邪魔されず、物語に没頭できる。

そのとき、彼女が手を伸ばした本に、別の誰かの指先が重なった。

「……あ」

「……ごめん」

顔を上げると、そこにいたのは、見知った横顔だった。

鷹野司。

学内でも目立つ存在。顔立ちの整ったイケメンで、いつも誰かに囲まれている。ビジネスサークルの幹部で、就活も早々に内定を取っていると噂される、まさに“順風満帆な男”。

まさか、その彼と自分の指先が同じ本を目指すなんて。

その本は、イギリスのクラシックミステリーの名作だった。

「……この作家、好きなんだ」

「……私も。新刊、ずっと待ってて……ようやく入ったって、図書館の掲示板で見たから」

「奇遇だね」

鷹野は、少しだけ笑った。その笑顔は、思っていたよりも柔らかかった。

「じゃあ、先に貸りていいよ。読み終わったら、感想聞かせて」

「……え?」

「本を通して話すの、楽しそうだからさ」

その日を境に、ふたりは図書館で顔を合わせるようになった。

互いに借りたミステリー小説の感想を交わすことが習慣になり、気づけば、毎週のように同じ机を挟んで語り合っていた。

授業よりも、小説のトリックや動機の話の方がよっぽど熱くなれる——そんな時間。

最初は信じられなかった。

こんな人気者と、自分のような地味な文学部の女学生が、こんなにも自然に言葉を交わせるなんて。

けれど、鷹野は常に自然体で接してくれた。

彼の興味は本物だった。読んだ本の一節をノートに抜き書きしていたり、自分では気づかなかった伏線を教えてくれたり。

会話の中で飛鳥が何気なく口にした好みや考察を、彼は驚くほど正確に覚えていた。

やがて彼は、図書館だけでなく、授業帰りに大学前のカフェで待ち伏せしていることもあった。最初は偶然かと思った。でも、三度、四度と続くうちに、意図的なものだと気づいた。

彼は自然な態度で、「次、ここ行ってみない?」と誘った。

映画館、本屋、美術館、時には少し遠出の散歩道。どれも飛鳥の趣味に寄り添うような場所ばかりだった。

ある日。

陽射しが差し込む窓際の席で、ふたりはいつもと同じように話をしていた。

「ねえ、飛鳥」

ふいに名前を呼ばれて、彼女は手元の文庫本から目を上げた。

「俺、ずっと思ってたんだ。君と話してる時間、すごく楽しい」

「……私も。鷹野くんが、こんなにミステリー好きだったなんて意外だったけど」

「うん。たぶんね、俺……君のことが、好きになった」

その瞬間、図書館の静けさが、まるで真空のように彼女を包んだ。

時が止まる、というのは、ああいう瞬間を言うのだと思った。

ほんの少しだけ、目が潤んだ。

そして、静かに頷いた。

それが、ふたりの関係の始まりだった。

最初は、ゆっくりとした時間だった。

一緒に新刊の発売を待ったり、映画化された原作を観に行ったり。カフェでトリックの考察を戦わせたり、夏休みの終わりに小さな書店巡りをしたこともあった。

彼の隣は、いつもあたたかくて、自分が誰かに大切にされている実感があった。

大学の文化祭では一緒にミステリー企画を企画・運営し、協力する中で、ますますお互いの距離は近づいていった。

——けれど、それは永遠には続かなかった。