現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

朝の撮影現場は、いつにも増して緊張感が漂っていた。

放送を前に、ドラマ全体の予算や編成の見直しが行われるタイミングで、有力スポンサーが現場に視察に訪れるという話が広がっていたからだ。

飛鳥はプロデューサーに呼ばれ、局内のロビーに足を運んだ。

そこにいたのは、ひときわ目立つスーツ姿の男性。周囲に自然と人垣ができているのが、その存在感の証拠だった。

黒髪をきっちりと撫でつけ、スマートな体型に仕立ての良いジャケット。その男がゆっくりと振り返ると、飛鳥は一瞬、息をのんだ。

「……鷹野……司」

大学時代の同級生。かつて、飛鳥の“ただひとりの恋人”だった男。

そして、今や名の知れたIT企業の若き社長。ビジネス誌の表紙を何度も飾り、革新的なサービスを次々と世に送り出してきた人物。

メディアにもよく登場する人物だが、彼がこのドラマのスポンサーの一社だったことを、飛鳥は今日初めて知った。

「久しぶりだね、飛鳥。相変わらず……いや、前より綺麗になった?」

変わらぬ調子で、鷹野は涼しい笑みを浮かべながら近づいてきた。社交的な笑顔。だがその目の奥に宿る鋭さは、大学時代から何も変わっていない。

「まさか、君が書いてるドラマだったとは思わなかったよ」

飛鳥は無言で立ち尽くしたまま、何も返せなかった。言葉が喉の奥で引っかかる。昔の記憶がざらりと音を立てて蘇ってくる。

——交際当時、鷹野の過剰な束縛や監視、支配的な言葉に耐えきれず、彼のもとを離れた。だが、それは簡単な別れではなかった。何度も繰り返された謝罪と執着。そして最後の言葉は、「君は誰のものにもならなくていい」だった。

鷹野はさらに一歩、距離を詰める。そして、他人には聞こえないよう、彼女の耳元で囁いた。

「……恋は、もういらないんじゃなかったのか?」

その言葉に、飛鳥は小さく後ずさった。思わず体が反応してしまう。

心の奥に封じ込めたはずの記憶が、刺激されたように蘇る。

鷹野は、そんな飛鳥の動揺を見透かすように、穏やかな笑みを浮かべたまま言った。

「何も変わってないな、君は。……でも、それでいい。そういう君が好きだったから」

その声音に、どこか独占欲めいたものが滲んでいた。彼の言葉は、まるで過去をなかったことにするかのように、軽やかで無遠慮だった。

だが、飛鳥の胸には、その言葉が突き刺さっていた。

(どうして今、あなたがここに……)

心の中でそう呟いても、声には出なかった。

鷹野は気づいたようにふと視線をずらし、廊下の奥に立っていた遥真の姿に目を留める。

遥真は、鷹野と飛鳥の距離の近さに、ほんのわずかに表情を曇らせていた。飛鳥の視線と鷹野の顔、そのわずかなやり取りに何かを感じ取ったのだろう。

鷹野はそれを見て、さらに笑みを深めると、飛鳥に向かってささやいた。

「……相変わらずだな、飛鳥。人の視線には鈍いくせに、心が揺れる瞬間だけは、すぐ顔に出る」

その言い方には、明らかな挑発が含まれていた。まるで、自分がまだ彼女の一番の理解者であるという既成事実を突きつけるような声音だった。

飛鳥は反射的に口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。ただ、握っていた台本の角が、じっとりと湿るほど手汗で濡れていた。

(私は、前に進んでいたはずなのに……)