現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

まだ心のどこかがふわふわとしていた。マグカップを受け取ってから、飛鳥は何をどう言えばいいのか分からずにいた。

そんな彼女に、遥真は静かに、しかし確かに言った。

「俺、ちゃんと覚えてました。でも、言葉だけじゃ足りないと思って」

そう言って、そっと彼女の頭に手を伸ばし、ぽんぽんと軽く触れた。慰めるような、労うような、そしてどこか誇らしげな仕草。

飛鳥はその手のぬくもりに、思わず瞼を閉じた。

——大丈夫、って、こんなに簡単な動作で伝わるんだ。

心が疲れていた。身体も、気持ちも限界だった。でも、そのひと言と、頭に置かれた手が、不思議と染み入ってくる。

「俺、飛鳥さんのこと、ちゃんと見てますから」

その言葉に、胸が小さく鳴った。

見てる——それは、彼女がずっと孤独に慣れようとしてきた時間を、まるごと包み込む言葉だった。

だからこそ、怖かった。

今ここで、その優しさを受け取ってしまったら、もう二度と、ひとりに戻れなくなるような気がして。

(逃げたい)

けれど、その逃げ道すら、遥真の目はすべて見透かしているようだった。

「他に、欲しいプレゼントないですか?」

冗談めいた口調。でも、どこか真剣さを含んだ声。

飛鳥は反射的に笑おうとした。だけど、ふと零れた言葉は、心の奥底から出たものだった。

「……あったまりたい」

自分でも、どうしてそんなことを言ってしまったのか分からなかった。

けれど、次の瞬間——

「……わかりました」

遥真は、何のためらいもなく、飛鳥の背中へと回り込む。

そして、そのままそっと、ぎゅっと抱きしめた。

驚いた。声も出なかった。

けれど、彼の胸に包まれたその瞬間、何もかもが溶けていく気がした。

温かい。

ただ、それだけなのに、涙が出そうだった。

何かを贈られるより、こうして抱きしめられる方が、ずっと、ずっと幸せだと思えた。

あたたかさは、形のあるものだけじゃない。

静かな部屋に、ふたり分の鼓動だけが響いている。

彼の腕の中にいると、孤独という感情そのものが、少しずつ輪郭を失っていくような気がした。

(……もう少しだけ、このままでいたい)

心の中でそう願った、ほんの数秒後——

飛鳥の身体が、ふっと遥真の腕の中で傾いた。

「飛鳥さん……?」

呼びかける声に反応がない。

その額に手を当てると、熱い。

「……嘘、まさか」

疲労と緊張が重なっていた。ずっと無理をしていた。

ようやく力が抜けたその瞬間、身体は限界を迎えていたのだ。

「飛鳥さん、しっかりしてください……!」

遥真は、震える声で何度も名前を呼びながら、そっと彼女を支え、テレビ局内の仮眠室へと運んだ。

手が、冷たい。

額から汗がにじみ、頬は赤く火照っているのに、身体全体が妙に軽い。

心配、という感情が、遥真の中で怒りに変わりそうだった。

どうして、ここまで我慢してたんだ。

どうして、誰かに頼ろうとしなかったんだ。

(……いや、そうさせてしまってたのは、周りの環境だったのかもしれない)

彼女は、誰よりも“完璧”に見えるようにしていた。

だからこそ、誰も彼女の限界に気づけなかった。

「もう、ひとりで全部抱えないでください……」

誰に聞かれるわけでもない、かすれた声でそう呟いた。

遥真は、飛鳥の肩にブランケットをかけ、その側でずっと寄り添い続けた。

その手は、ずっと彼女の細い手を離さなかった。

時間がゆっくりと過ぎていく。

時計の針が小さく音を立てるたびに、彼女の胸が上下するそのリズムを、遥真は見つめ続けた。

眠りの中でわずかに震える指先。

熱に浮かされて、無意識に彼の名前を呼ぶような唇の動き。

(俺は、あなたのそばにいたい)

心の奥で、遥真は静かに誓っていた。

——この人のために、自分ができることを全部してあげたい。

そう強く、強く思った。

それは、もう“役者”と“脚本家”という関係だけでは語れない、確かな感情だった。