現実は、恋愛ドラマよりも甘く~恋を知らない俳優と、恋を書けない脚本家~

深夜のテレビ局。ビルの外はとっくに終電も過ぎ、静けさが街を支配していた。

会議室にひとり、飛鳥は机に突っ伏すようにして、脚本の修正に追われていた。蛍光灯の白い光が、彼女の疲れた横顔を照らしている。

誕生日。

気づけば、日付が変わるまであと数分。けれど、プレゼントもケーキも、祝ってくれる誰かもいない。

通知も鳴らないスマホの画面。LINEのアイコンも、メールの受信ボックスも、無言のまま。

ただ、モニターの光と赤ペンのインクだけが、彼女の存在を証明していた。

(いいよ。いつも通り、仕事してるだけ。これが私の選んだ人生)

そう自分に言い聞かせながら、集中しようとした。だが、視界がにじむ。疲れのせいか、感情のせいか、自分でもよくわからなかった。

何度も校正モードを切り替え、何本もの修正案を行き来する。

頭の中では、登場人物たちが会話している。だけど、そこに心が乗らない。

(今日は、自分の誕生日なのに)

そんな声が、喉の奥で小さく反響していた。目を伏せたまま、小さく笑った。

「……誰も気づいてないなんて、むしろ気楽でいいのかも」

そう呟いたそのとき——

「……誕生日、おめでとうございます」

突然、背後から聞こえた声に、飛鳥は驚いて顔を上げた。

そこには、遥真が立っていた。照明の落ちた廊下を抜けて、音もなく現れたその姿に、まるで夢を見ているような気さえした。

「なんでここに……?」

「スタッフさんから聞いて。脚本の修正、まだ終わってないって。もしかしたらと思って」

遥真は、両手に小さな紙袋を持っていた。

「大したものじゃないんですけど……これ」

そう言って差し出されたのは、白い箱。開けると、見覚えのあるデザインのマグカップが顔を出した。

「これ……あのときのカフェの?」

「はい。デートレッスンのときに入った店で、飛鳥さんが『これ、可愛い』って言ってたの、覚えてたから」

胸が詰まった。

「……どうして……」

「あの時、誕生日聞いてたから…今日くらい、ちゃんと祝われるべきだと思ったんです」

飛鳥はしばらく言葉が出なかった。

ありがとう、と言いたかった。でも、すぐには声にならなかった。

目の奥が熱くなる。涙なんて、もう随分前に枯れたと思っていたのに。

息を吸って、吐いて、どうにか笑顔をつくる。

静かな会議室の中、カップを両手で包み込むようにして、ようやく、かすかに笑った。

「……ありがとう。嬉しいです」

「良かった」

遥真も、どこか照れたように目を細めて笑った。

ほんの数分のやり取り。

それだけなのに、今まで感じたことのない種類の“あたたかさ”が、胸の奥に静かにしみ込んでいく。

その夜、飛鳥の手には、あたたかい飲み物も、ロウソクもなかった。

でも、静けさの中で差し出されたマグカップは、どんなプレゼントよりも心を満たしてくれた。

カップの内側に、小さく印刷された文字があった。

——Life needs moments like this.

まるで、今のふたりのためにあるような言葉だった。

「……このカップ、ちゃんと使いますね」

「使ってください。飛鳥さんが、台本書くときに手にしてる姿、似合うと思って」

飛鳥は頬が熱くなるのを感じながら、うなずいた。

「……今日、誰にも言ってなかったのに。ちゃんと覚えててくれて、ありがとう」

「覚えてますよ。大事な日じゃないですか」

その一言が、心のどこかにあった空白をそっと埋めていく。

(もし、このプレゼントがなかったら——私は、今日という日を一人きりで終わらせていた)

そんな思いが、胸の奥に小さく灯っていた。

——“誰かが思い出してくれた”。

それだけで、こんなにも救われるものなのだと。

机の上に置かれたカップを見つめながら、飛鳥は小さく息を吐いた。

その夜の静けさは、もう寂しさではなかった。

彼が来てくれたこと。贈り物よりも、その気持ちが、今の彼女にとって何よりの温もりだった。

マグカップの取っ手に指をかける。白地に描かれた淡いブルーのラインが、ふと指先に触れる温度を伝えてくる。

飛鳥はそのままそっと目を閉じた。

今日という一日が、ようやく終わっていく。

そして、明日を迎える準備が、心の中で静かに始まっていた。