その日の練習は、昼下がりの会議室。
照明が差し込む静かな空間に、ふたりの影が落ちている。
机には次回の台本案。ページの隅に小さく赤字で書き加えられた演出指示——
《至近距離での囁き。低く優しく、「好きだよ……」》
飛鳥が書いたセリフ。
けれど、いざ読むとなると、脚本家としてではなく“女”の自分が反応してしまいそうで、少しだけ手が震えていた。
「じゃあ……このシーン、やってみますか」
遥真の声は落ち着いていた。
飛鳥は頷いた。台本を持ったまま、目をそらすように一歩後ろへ下がる。
「椅子に座った状態で、私が台本を読んでて……あなたが背後から近づいて、“好きだよ”と囁く、っていう流れでいい?」
「わかりました」
ふたりはポジションにつく。
飛鳥は椅子に座り、台本を持っている体を少し斜めに向けた。遥真は彼女の背後に立ち、軽く深呼吸する。
「……いきます」
一歩。
また一歩。
遥真の気配が、背後に近づいてくる。
椅子越しに、吐息がうなじをかすめる距離まで寄って——
「……好きだよ」
囁くような低い声。
その一言は、想像よりもずっと柔らかく、深く、耳の奥へと滑り込んだ。
反射的に、飛鳥は息をのんだ。
指先がぴくりと揺れる。
心臓が跳ねるように高鳴るのが、はっきりとわかった。
喉の奥がひりつくように乾く。背中に張りつく熱。
動くことができず、ただその声に包まれたまま——
「っ……」
立ち上がるように、飛鳥は遥真から少し距離をとった。
遥真も驚いたように一歩引く。
一瞬の沈黙。
そして——
「い、今の、演技です!」
遥真が慌てて声を上げた。
その声が、かえって場の空気を熱くさせる。
「わ、私も……もちろん、演技として……」
互いの頬が赤らんでいるのを、お互いに見てしまった。
笑いに逃げるには、あまりに心臓の音がうるさすぎる。
「……もう一度やってみますか?」
遥真が、真面目な顔でそう言った。
飛鳥は少しだけ言葉に詰まり、それでも笑顔を作った。
「ええ……そうね。もう一度」
立ち位置に戻りながらも、飛鳥の耳には、まださっきの囁きが残っていた。
『好きだよ』——たった四文字。
誰もふざけていない。
本気でもない、かもしれない。
だけど、完全な“嘘”とも言い切れない。
飛鳥は座り直しながら、自分の内側に渦巻く感情に気づいていた。
(どうして、こんなに心が乱れるの)
脚本家として、これまで何万行もセリフを書いてきた。
愛してる、好きだ、そばにいて……そんな言葉を、幾度となく紙の上に並べてきた。
でも、今日初めて気づいた。
“自分自身”がその言葉を受け取ったとき、こんなにも体が反応するなんて。
「……遥真くん」
思わず名前を呼びそうになって、言葉を飲み込む。
彼はいつも通りの顔をしていた。
だけど、その目だけは、何かを探るようにまっすぐ飛鳥を見つめている。
台本に書かれていない沈黙。
セリフよりも、はるかに多くの意味を持った“間”。
——これは、演技?それとも——。
わからないまま、ふたりは再び、台本の世界に戻っていった。
けれどその世界と現実の境目は、今やほとんど消えかけていた。
照明が差し込む静かな空間に、ふたりの影が落ちている。
机には次回の台本案。ページの隅に小さく赤字で書き加えられた演出指示——
《至近距離での囁き。低く優しく、「好きだよ……」》
飛鳥が書いたセリフ。
けれど、いざ読むとなると、脚本家としてではなく“女”の自分が反応してしまいそうで、少しだけ手が震えていた。
「じゃあ……このシーン、やってみますか」
遥真の声は落ち着いていた。
飛鳥は頷いた。台本を持ったまま、目をそらすように一歩後ろへ下がる。
「椅子に座った状態で、私が台本を読んでて……あなたが背後から近づいて、“好きだよ”と囁く、っていう流れでいい?」
「わかりました」
ふたりはポジションにつく。
飛鳥は椅子に座り、台本を持っている体を少し斜めに向けた。遥真は彼女の背後に立ち、軽く深呼吸する。
「……いきます」
一歩。
また一歩。
遥真の気配が、背後に近づいてくる。
椅子越しに、吐息がうなじをかすめる距離まで寄って——
「……好きだよ」
囁くような低い声。
その一言は、想像よりもずっと柔らかく、深く、耳の奥へと滑り込んだ。
反射的に、飛鳥は息をのんだ。
指先がぴくりと揺れる。
心臓が跳ねるように高鳴るのが、はっきりとわかった。
喉の奥がひりつくように乾く。背中に張りつく熱。
動くことができず、ただその声に包まれたまま——
「っ……」
立ち上がるように、飛鳥は遥真から少し距離をとった。
遥真も驚いたように一歩引く。
一瞬の沈黙。
そして——
「い、今の、演技です!」
遥真が慌てて声を上げた。
その声が、かえって場の空気を熱くさせる。
「わ、私も……もちろん、演技として……」
互いの頬が赤らんでいるのを、お互いに見てしまった。
笑いに逃げるには、あまりに心臓の音がうるさすぎる。
「……もう一度やってみますか?」
遥真が、真面目な顔でそう言った。
飛鳥は少しだけ言葉に詰まり、それでも笑顔を作った。
「ええ……そうね。もう一度」
立ち位置に戻りながらも、飛鳥の耳には、まださっきの囁きが残っていた。
『好きだよ』——たった四文字。
誰もふざけていない。
本気でもない、かもしれない。
だけど、完全な“嘘”とも言い切れない。
飛鳥は座り直しながら、自分の内側に渦巻く感情に気づいていた。
(どうして、こんなに心が乱れるの)
脚本家として、これまで何万行もセリフを書いてきた。
愛してる、好きだ、そばにいて……そんな言葉を、幾度となく紙の上に並べてきた。
でも、今日初めて気づいた。
“自分自身”がその言葉を受け取ったとき、こんなにも体が反応するなんて。
「……遥真くん」
思わず名前を呼びそうになって、言葉を飲み込む。
彼はいつも通りの顔をしていた。
だけど、その目だけは、何かを探るようにまっすぐ飛鳥を見つめている。
台本に書かれていない沈黙。
セリフよりも、はるかに多くの意味を持った“間”。
——これは、演技?それとも——。
わからないまま、ふたりは再び、台本の世界に戻っていった。
けれどその世界と現実の境目は、今やほとんど消えかけていた。



