わがおろか ~我がままな女、愚かなおっさんに苦悩する~

 この男はいったい何を言っているんだ? とアカイの言葉にシノブは唖然とした。身体の震えが止まらない。まさかそんな、よりによってそんな疑いを抱くだなんて……酷すぎる!

「いくらなんでも酷いんだけど」

 睨むとアカイの顔に狼狽の色が走る。なんて馬鹿な男。

「なに? こう言いたいわけ? 私が王妃になりたいから、無実の王妃候補者を陥れ、倒してその地位を乗っ取ろうととか……本気でそんなこと思ったの?」

 アカイは怯えながら首を小さく振るが全く以てその醜悪さに苛々させられる。こんな態度をとるのなら、なんでそんなことを言ったのやら。しかもそう思ったからこそ、そう言った癖になにそれ? 誤魔化さないで。

「違うというのなら、どうしてそんなこと言ったの? 有り得ない!」

 手を振り払うとシノブは駆けだして扉を開け部屋から出て廊下に出た。本当にムカつく! とシノブは興奮しながら行く当てもないが宿屋の廊下を進み玄関へと向かう。

「二度と顔を見たくない!」

 シノブはいま自分は本気で怒っていることに気付いた。今までアカイが何をしようが何をされようが忍んできたのに、ただあれだけは許せないと思った。許してはならない、これは我を忘れて怒っていいと。それはそうだ。あの男は、アカイは、私にこう言ったのだ。この私が王妃を倒して自分がそれに成り代わろうとしているって。

「信じられない」

 頬に伝わるものを感じ涙が流れていると分かったシノブはそこを拭った。あまりにも感情が昂り過ぎによって出る怒りの涙。これ以上に無い侮辱。私はそんなつもりはあるけど、ない。前提がおかしいのよ前提が。あいつは言った、候補者を悪女と見立てたと。なにそれ? あんたはさっき私の言葉を信じたじゃないの?

 それなのに急に意見を変えて、それじゃあさっきのあれは、私の話しに調子を合わせていたわけ? あんたは私の言葉をはじめから信じていなかったの? 信じていたふりをしていたとか? 有り得ない……私はあなたのことの多くを信じてはいないけど、あなたは私のことを全面的に信じるべきでしょ? だって好きなんでしょ? 私のことが! だったら信じなさいよ! なのに疑うとか……調子に乗るな!

 宿の扉を蹴とばし飛び出すと外は夕方から夜へと変わっている。その暗黒の中に向かってシノブは走り出す。その脚を止める術はどこの誰にも無い。

「結局私は一人なんだ」

 また涙が流れるがもう拭いはしなかった。夜であり暗黒であり、なにも見えないのであるのだから。そのまま流れるに任せる。

「誰も私のことを信じてはくれない」

 兄もその兄嫁もそしてアカイも……きっと王子も。

「私はただあるべきものを元のところに置くべきだと言っているだけなのに。つまりは」

 自分が王妃になるべきだと……なのにどうしてみんな私を信じてくれないのか? どうして。もしかして……

「私が間違っているのかな?」

 その言葉を口に出した途端にシノブの足は止まり、四方八方から闇が襲い掛かりこれまで包んで来た自らの正体を失わせる。つまりはじめから私は間違えていた。王子は騙されていなく王妃に陰謀は無くそして罪は私だけにある……そんなはずはない、そんなわけはない、陰謀は間違いなくあるし、王子は騙されているしあいつは悪女だ……その根拠は? 私が聞いたから。それだけ? いいえそれ以外にも決定的なのは私が王妃候補者に落選したから。選ばれなかったから。それは間違い……どうして?

 闇の中で今度は寒気がシノブの全身を取り巻く。私が選ばれないのはおかしいから……待って、その前提なのはどうして? だって……ならどうしてアカイが現れたの? 闇のなかで一点の光が灯された。そうよ彼は私が王妃になるために天から遣わせられた何かじゃないの? 悪女の呪いによって力を奪われた私は一人で旅をする力さえ失われていた。その苦難の旅の途中で彼が現れた。これこそが啓示でなかったらなんだというの?

 彼には下心しか無かったけれども、それでも旅が可能になりここまでこれたのは彼があってからこそ。そんな彼がいたから私はこんな疑いなんて持たなかった。だって彼は信じてくれたじゃないの。私の使命の証は、その証人は彼で……けどそんな彼も結局は半信半疑だった。だから我慢ができなかった。兄やカオリさんが信じなくても私は少しも苦しくはない。たとえ世界中の誰もが疑っても私は我慢できる。アカイが私を信じ共に旅をしてきたから……私はそこを考えずに済んだ。

「なのになんでよ」

 思い出すとまたシノブの悔しさのあまり涙があふれて来る。

「なんで私を一人にするのよ。私の傍にいてよ」
「なんだよ姉ちゃん? 寂しいの? だったら俺が傍にいてやるぜ」

 突然の声に振り返ると街灯に照らされたその人相の悪い男。シノブは辺りを見渡す。いつの間にか夜の街の入り口付近にまで足を踏み入れていた。

「ほらどうした? 俺とどっか良い所へに行こうぜ?」

 男の腕がゆっくりと伸びてくるのを見ながらシノブは怯えた。

「ひっアカイ、助け……」

 言葉は途切れその代わりに思いが来た。私はいつからこんなに情けなくなったのだろうかと。彼と旅をするうちに、こんな弱々しい言葉を反射的に発するまでに落ちぶれて。いや身体が呪いで弱くなったんだ、だから、仕方がないじゃないか。反する声が聞こえるもシノブはすぐに返す。その言葉を言ったのは明らかに弱さだと。

 ずっと甘え続けていた……考えてみると自分は人に甘えるということがこれまで、あまりなかった。私は誰よりも強く優れていた。自分よりも強いものは滅多におらず尊重されてきた。それがいまでは誰よりも弱く、あんな存在の庇護下に入って満足しているものとなってしまった。

 元に戻れたら、とシノブは男の手が自分の手首を掴んだのを感じた。脊髄が不快感を脳に強く伝えてきた。もしも自分があの頃だったらこんなことをされたら私は一瞬で……そう、こんな感じで相手の手首をキメて跪かせる。

「いてえええええ!! なっなにすんだテメェ!」

 こんな感じで無様な悲鳴を聞いてきた。いや、聞いている。

 馬鹿な男の情けない声。とても気持ち良く耳の鼓膜に響いてくる。

 しかし信じられない、とシノブは不思議な気持ちのまま言った。

「痛いの?」

 悲鳴に対しシノブは真摯に尋ねた。