その晩、私は水神様の部屋を訪れていた。

「水神様、琴音です」
「入れ」

 私の足取りは重たいままだった。
 水神様の傍に座ると、彼にお願いをする。

「どうか、村を救ってください。お父様も、奥様も……」
「お前は甘い!」

 初めて聞いた水神様の大声に、私は何も言えなくなる。

「和泉家がどれほどのことをお前にしたのか、わかっているのか?」
「……はい」
「わかっていない!!」

 水神様はこちらを向いた。
 その顔はひどく傷ついたような寂しいような、悔しいような表情。
 彼に圧されそうになってしまうのを堪え、私は一生懸命思いを伝える。

「確かに、お父様と奥様にはひどいこともされました。ですが、それでもたった一人の父とその大事な人なんです。そして、和泉家には私によくしてくれた人たちもたくさんいます。彼らが路頭に迷うことはあってはなりません。どうか、どうか、彼らに救いを与えてくださいませんか」

 深く頭を下げて思いを込める。

(どうか、お願いします……)

 静寂の間に、鈴虫の声が響く。

 長い、長い沈黙を開けて、水神様の声が聞こえた。

「顔をあげろ」

 その声に従って私はゆっくりと彼を見た。

「和泉家に一度だけ機会をやる。彼らが今回のことで心を入れ替えたならば、自然が導き、良き村に戻るだろう」
「水神様……」
「あくまで私は手助けをする程度。あとは人がなんとかしなければよくはならない」

 私はその言葉を聞き、頭を下げた。

「ありがとうございます!」
「お前には二度も我が子を助けてもらったからな」

 水神様は仕方がないという様子で目を逸らした。
 私は思わず笑ってしまう。

「何がおかしい」
「いえ、水神様って最初怖いひとかと思ってたんですが、優しいんですね」

 私に言われたのが不満なのか、眉をひそめる。
 でも私にはわかった。
 それが照れ隠しだということに……。

(よかった……でも、これで……)

「これで、私のお役目は終わりですね」

(生贄もなくなって、村も救われる。これで、私のいる場所はもう……)

 そう思っていた私を水神様が抱き寄せる。

「水神様!?」
「お前、出て行くつもりだっただろう。そうはさせない」

 そう言うと、水神様は胸元から小さな丸い水晶のようなものを取り出す。

(これ、うーちゃんのくれた石とよく似てる)

「我が子があげたのだろう? お前に」
「は、はい……感謝のしるしかなと……」
「違う」

 水神様は否定する。

「これは『求婚』のしるしだ。まあ、もっとも我が子はまだ幼く、意味を知らなかったようだがな」
「え……」

 小さな石を水神様は私に差し出すと、耳元で囁く。

「行かせはしない。ここで私の『華嫁』として一生傍にいろ」
「それって……」
「返事は?」

(水神様の妻に……? 私が、私なんかが……)

 そう思っていると、水神様は私の頬に手を添えて告げる。

「今、『私なんか』と考えただろう」
「どうして……」
「お前の考えなど、手に取るようにわかる。さあ、返事は?」

 そう告げた水神様は立ち上がる。

「冗談だ。さあ、今日は眠れ」

(あっ! 行ってしまう!)

 水神様の袖を思わずぎゅっと握ってしまう。
 二人の視線が交錯した時、私は小さな声で返事をした。

「……てください」
「え?」
「私を、あなたの妻にしてくださいませんか?」

 きっと私の顔は真っ赤だ。
 人生で初めての告白で、緊張と怖さに襲われる。

 しかし、そんな不安は彼が拭い去った。

「では、名を授けてくれ」
「名?」
「華嫁を承諾する証として、神に名を贈る。お前から、私の名がほしい」

(水神様の名前……)

 私は思案すると、そっと口を開いた。

「澪。あなたの名前は、澪がいいです」

 その言葉を聞いて、水神様は笑った。

「良き名だ。一生大切にすると誓う、お前に与えられた名も、そしてお前も」

 月の光が届く縁側で、私たちは口づけをした──。