年末の忘年会は、毎年同じ居酒屋の貸切で行われる。古びた木の扉を開ければ、酒と焼き鳥の匂いが鼻をつき、誰かの笑い声が壁を震わせている。

「佐伯課長、こっちです!」

 広報課の後輩が手を振る。崇は軽く手を上げて応じながら、店の奥へと足を運ぶ。座敷にはすでに多くの社員が集まっていて、崇はその中に彼の姿を見つけた。

 水島 湊。

 明るい茶色の髪に細い目元。笑うとえくぼができるその顔が、酒を飲むたびに柔らかくほどけていく。

(……また、近くか)

 席順は部ごとに緩く決まっているが、偶然か、それとも誰かの配慮か、崇と湊は向かいの席に座ることが多かった。今日も例に漏れず、湊は崇の斜め前。盃を掲げたその指先が、少し赤くなっている。

「課長も、飲みます?」

「……ああ」

 湊が酒を注いでくる。ピッチャーを傾ける手が、妙に滑らかだった。くぐもった店内の灯りが、彼の睫毛の影を落とす。

「一年、お疲れさまでした」

「そっちこそ。広報、今年は動き多かったろ」

「まあ、はい……いろいろ、ね」

 意味深に笑う湊に、崇は少しだけ眉をひそめた。冗談のような、嘘のような、その曖昧な表情にどこか心がざわついた。

 酒が進むにつれて、店内の喧騒は激しさを増す。誰かが無礼講と叫び、誰かが無理に飲まされ、誰かが潰れて寝ていた。日頃のストレスが泡になって飛んでいくようで、皆、解放されたような顔をしている。

 湊も例外ではなかった。普段よりも笑顔が多く、声が大きい。けれどその笑顔の裏に、どこか――何かを隠しているような、翳りがあった。

 終電が近づき、社員が一人また一人と帰り始める頃、湊が突然言った。

「佐伯課長、ちょっとだけ、付き合ってもらってもいいですか?」

「……は?」

「いや、別にやましいことじゃなくて。話したいことがあるっていうか。ほんのちょっとだけ、どっかで、ね」

 酔っているのだろうか。その目は潤んで、頬には赤が差している。それでも、ただの酔いだけではない気配があった。

 ――なぜか、断れなかった。

 崇は頷いて、店を出た。

 夜の空気は冷たかった。駅のコンコースを抜け、人気のない裏道を抜ける。タクシーも拾わず、気づけば二人で歩いていた。

「……寒くないのか?」

「寒いですよ。けど、なんか……人と一緒に歩いてると、それだけで少しあったかいなって思って」

 意味のわからないことを言う。けれど、心のどこかに引っかかった。

 やがて、湊が立ち止まった。

「ねえ、佐伯さん。今日だけでいいんで、家、泊めてもらえませんか」

 風が、ふたりの間を抜けた。

「……なんで俺なんだ」

「……寂しいから、です」

 その声は、震えていた。ほんとうに、寂しい人の声だった。

 崇は小さくため息をつき、スマホを取り出す。

「……わかった。場所、送る。うち、汚いけどな」

「ありがとう」

 微笑んだ湊の顔を見て、崇は思った。
 ――これは、最初の嘘になる。

 けれどそのとき、なぜか抗えなかった。