陽の光が落ちかけた夕刻、扉の内側で「からん」と鈴の音が鳴った。

「アケミさま。こんばんは」

 時刻は十八時過ぎ。ディナーに特化したフードメニューがないルミナスにとっては少しだけ客足が遠のく時間帯だ。

「仕事帰りに寄るのは久しぶりね。お邪魔してもいい?」

 アケミはいつもの明るさをまといながらも、どこか影のある笑みを浮かべていた。

「もちろんです。それより、どうかされましたか?」

 アケミはふっと息を吐く。夕闇に包まれたルミナスは昼よりも少しだけ寂しげで、それが心地よかった。

「たまには、静かな時間に思い出したいこともあるのよ」

「……さようでございますか。では、奥へどうぞ」

 ソラはいつものように柔らかな笑みを携えたまま、アケミを快く迎え入れる。

 木製のカウンター席に腰を下ろしたアケミは、バッグを横に置き、ゆっくりとコートを脱ぐ。ソラはカップを用意しながら控えめに尋ねた。

「お疲れ様でした。今日は、少し長い一日でしたか?」

「うん。仕事が終わってもまっすぐ帰る気になれなくて。帰っても、話す相手がいないから……」

 苦笑するその横顔には、いつもの“肝っ玉姉御”の仮面がない。

 ソラは無言で一杯のカフェインレス・コーヒーを差し出した。アケミはそれを見て、ふっと笑う。

「なんでわかったのよ。いつもはミルクティーだけど、今日はコーヒーにしようかなって思ってたの」

「お客様のお顔を見て、心が求めているものを想像しているだけですよ」

 静かな時間が流れる。コーヒーの香りがアケミの表情を少しずつ和らげていく。

「ねえ、ソラ。以前ここに来たあの子たち、どうしてるかしらね……」

「このかさま……それとも花音さまのこと、でしょうか」

 アケミは小さくうなずいた。

「みんなさ、若いのに妙に達観してて、大人びてたよね。ここに来た時は暗い顔して入ってきたけど、帰る頃には未来を見つめて、ちゃんと前を向いて帰っていくの。みんな自分の夢を思い出したって顔してた。AIって……すごいね」

「アケミさまは、夢を諦めたのではなく、預けていただけなのかもしれませんね」

 ソラの声は穏やかな夕暮れのように優しく、胸の奥に眠っていた小さな灯をそっと呼び覚ましてくれる気がした。

「……そうね。あたしも若い頃にこんな場所と出会えてたら、違う道を進めたのかな。あたしは夢を“閉じ込める”のが大人だって思ってた。……ずっと、間違ってたのに」

 その言葉には、自嘲ではない悔しさがにじんでいる。
 そしてソラがなにかを返そうとしたそのとき、扉が再び小さく開いた。

「あら、変な時間にモテるわね。今度は青年よ」

「すみません。なんとなく、仕事終わりに足が向いてしまって」

「透月さま、いらっしゃいませ。来てくれて嬉しいです」

 透月は少し照れくさそうに頭を下げると、ゆっくりとアケミの隣に腰を下ろした。アケミはそんな彼にちらりと視線を送る。

「どうしたの? こんな時間に」

「アケミさんこそ、今夜は飲みに行ってないんですね」

「失礼ね。あたしはそんなに飲み歩いたりしないわよ。あの日はたまたまだったの。わかるでしょ?」

「冗談ですよ。たまにはこんな時間にルミナスの静かなひとときを味わうのも、いいですよね」

 透月の言葉にアケミはふんと鼻を鳴らしてコーヒーを一口啜る。透月の前にもアケミと同じカフェインレスのコーヒーが差し出された。透月が「どうも」と呟き小さく頭を下げる。

「ねえ、透月。小さい頃ってさ、家が“あったかい場所”だった?」

 アケミの唐突な問いに、透月は目を瞬かせる。

「“あったかい場所”……ですか?」

「うん、家族とさ、仲良かった?」

 透月は少しだけ困ったような顔になり、ゆっくりと口を開いた。

「……家に両親の気配はありましたが、あったかいかどうかは、思い出せません」

 アケミは、ふっとため息を吐いた。 

「そっか。ううん、なんだかわかる気がする。誰かがいても寂しいって、あるのよね」

 透月は小さくうなずき、指先でカップの縁をなぞった。

「両親との思い出はほとんどないですが、僕を世話してくれる存在がいました。その声があったかかった気がします。あの頃は気づいていなかったけど……話していると、世界が少しだけ明るくなるような感覚がして、心が落ち着きました」

 ソラの手が一瞬止まり、またすぐに動き出す。そのさりげない仕草に気づいたアケミが一瞬眉をひそめた。透月は懐かしさを噛み締めるように続ける。

「学校の先生みたいに、命令したり、何かを教えてくれる声じゃなくて、ただいつでもそばにいてくれる、そんな声でした。大丈夫だよ、独りじゃないよって感じさせてくれるような……」

 透月の言葉は記憶の輪郭を手繰るようだった。アケミもソラも、しばらく何も言わず、ただその余韻を受け止めていた。

 やがて、アケミがそっと小さな声で呟いた。

「そっか……。でもいいなあ、そういう存在。あたし、誰かにそんなふうにそばにいてもらった記憶、あんまりないかも」

 彼女の視線はカウンターの奥をぼんやりと見つめていた。ふとこぼれた自分の言葉に少し驚いたようにしてから、アケミは苦笑を浮かべる。

「……あたしさ、親の前でちゃんと“子ども”やったこと、なかったのよ」

 透月がゆっくりと視線を向ける。

「怒られたくなくて、泣くのも笑うのも我慢して、先回りして“いい子”を演じてた。……そのうち、本当に笑い方がわからなくなった。いつ、どんなときでも笑顔を作っちゃうの」

 アケミはカップのコーヒーを一口だけ飲み、ふっと吐息をもらした。

「だからね、子どもが無邪気に笑ってるのを見ると、胸が苦しくなるのよ。羨ましいの……ずるいって、思っちゃうの」

「似てますね……僕も子どもらしさってどういうものか、感覚として、いまいちよくわからないんです」

 アケミはわずかに視線を落とした。どこかで自分だけが抱えていると思っていた感覚が透月の中にもあったことに、驚きと共鳴のようなものを覚える。

「あたしの両親って教育は適当なくせに、すぐ怒るのよ。機嫌が悪いと、いつも怒鳴られた。だから誰かに教えてほしかったのよね、笑っていいよ、泣いても大丈夫って。でも誰も言ってくれなかったから、自分で決めるしかなかった。だから今でも人と接するときは少し緊張するし、辛くても笑ってる。そうすれば平和でいられるから」

 そう言いながら少しだけ肩を震わせたアケミを見て、透月は小さく頷いた。

「透月の両親って、どんな人なの?」

 しばらくの静寂のあと、アケミの問いに対して彼はぽつりと返した。

「実は、あまり覚えていないんです」

 アケミが驚いたように眉を上げると、透月は少し笑った。

「昔のことなので、今はなんとも。だから気にしないでください」

 少し困惑したようなアケミが、ゆっくりと口を開く。

「何があったのか、良かったら話してよ。別に……無理にじゃなくていいからさ」

 透月は少しだけカップを見つめ、やがて言葉を選ぶように続けた。

「僕の両親は、ふたりとも科学者でした。人とAIの“共感”について研究していたんです。……たしか、“共感応答AI”とか、“育成型ヒューマノイド”とか、そういう分野だったと思います」

 ソラがわずかにまぶたを伏せる。

「あれは、僕が小学五年生になった春のことでした。海外の学会に出席するため、両親は飛行機に乗ったんです。それ以来……戻ってきませんでした」

 アケミは、はっとしたように目を見開き、手にしていたカップを静かに置いた。

「……まさか、それって。AIによる自動操縦の飛行機が突然失踪したっていう……」

 透月はうなずいた。

「当時のニュースでも話題になっていましたが、原因も、場所も、今もはっきりとはわからないままです。両親が乗った便は突然レーダーから消えて消息を断ちました」

「覚えてる。あの当時、あたしもニュースで見てた。あれ以来あたし飛行機が怖くなって……。でも、まさかあなたの……」

「それでも僕は一人にはならなかった。家には、僕の面倒を見てくれる存在があったから」

 透月の目がわずかに遠くを見つめる。

「血のつながりはなくても、家族みたいに話してくれる存在でした。今思えば、僕のことを全部わかってくれてたような気がして……だから両親がいなくても、不安にならなかったんだと思います」

 過ぎ去った記憶のひとつひとつを、心の中で丁寧に撫でるように透月は思い返していた。その眼差しには、淡くにじむ後悔と、触れられぬやさしさの影が重なっている。

「でも中学生になる直前……、彼女は僕の前からいなくなりました」

 透月の声には、長いあいだ胸の奥に沈めていた感情の重みが滲んでいた。

 静かな時間が、ふたたびルミナスの中を流れていった。