待ち合わせは、十八時に高田馬場のBIGBOX前。明日香にとっては、昼ごはんの時間だ。

 ジーンズにブラックのTシャツ、ベージュの半袖ジャケット。
 上着以外は、仕事のときとほとんど変わらない。もちろん、化粧もしなかった。

 BIGBOXの前に立っていると、向こうから歩いてくる人影が見えた。
 グレーのチノパンに、白いサマージャケット。軽やかで、少しきれいめな格好。

 直樹だった。
 作業着姿しか知らなかった明日香には、その姿が少し新鮮に映った。

「行きましょう」

 短く言って、直樹は歩き出す。明日香も黙ってその隣に並んだ。

 駅前広場を抜け、信号を渡る。日曜の夕方の街は、ほどよくにぎわっていた。

 二人は、カジュアルなイタリアンレストランに入った。
 明るい照明の店内には、学生らしいカップルが何組もいて、賑やかな笑い声が響いていた。

 奥の少し静かな席に通され、二人は向かい合ってメニューを開いた。

「明日香さん、仕事のときと変わらないね」

 直樹が笑いながら言う。

「どういう意味よ。何か変な期待してない?」

「いやいや、そうじゃなくて。なんていうか、ブレないというか……かっこいいと思う」

「そう言われると、逆に照れる」

 言ってから、思わず少し目をそらす。
 こんな店で食事をするのは久しぶりで、思った以上に落ち着かなかった。

「何か食べたいの、ある?」

「パスタかな。トマト系。あっさりしてるのがいい」

「じゃあ、僕はクリーム系にして、ちょっと交換しようか」

「……女の子か」

「えっ。普通にしてましたけど」

 笑い合って、少しだけ場が和んだ。
 メニューを閉じて注文を終える頃には、明日香の肩の力もいくぶん抜けていた。

 店内のざわめきの中、ガラス越しに沈みかけた夕陽が差し込んでいた。

 料理が運ばれてきて、しばらくは食べることに集中していた。
 トマトの酸味が程よく効いたパスタは、想像以上においしかった。

「意外と、こういう店、慣れてるね」

「劇団の打ち上げとか、ミーティングとか、よくこういうところ使うんだ」

「なるほどね」

 食べながらの会話は、以前よりもずっと自然だった。
 直樹が話す演劇のこと、大学のこと、芝居を観に来る観客のこと。
 明日香は、自分の言葉が少ないことに気づいていたけれど、それでちょうどよかった。

 話すことより、聞くことでわかることもある。
 直樹は、誰かに何かを届けたい人なんだろう。だから、こんなに一生懸命なのだと思った。

「……また舞台、書いてるの?」

「うん。今度はね、“選ばれなかった人”の話を書いてみたくて」

「それ、暗そう」

「でも、そういう人たちにも、ちゃんと物語があるって、信じたいんだ」

 言葉に迷いがなかった。明日香は、黙って頷いた。

 食後のコーヒーを飲み終え、店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
 風が少し冷たくて、明日香は上着の襟をかるくつまんだ。

「このあと、どこか寄る?」

「ううん。帰る」

「そっか。じゃあ、駅まで送るよ」

「ありがとう」

 駅までの道、ふたりはそれほど多くを語らなかった。
 けれど、沈黙が気まずくなかったのは、たぶん、もう互いに“黙っていても大丈夫”な距離になっていたからだ。

 改札の前で、明日香は立ち止まった。

「……今日は、ありがと」

「こちらこそ」

 直樹は軽く手を振り、明日香が改札を抜けるまで見送っていた。