◆

「そうか……しかし、王太子殿下も年頃であろう。ふらりと気が揺らぐ事もあるのではないか。どのみち一過性のものだと儂は思うがの」

「そうねえ」

 婚約関係にある相手が別の令嬢と懇意にし──そのことで不安を訴えたのだが、それに対しての両親の返事がこれであった。

 私の事をどうでもいいと思っているわけではない事は知っている。

 私は高位貴族の娘にしては親からの愛を注がれていると思う。

 高位貴族の娘とは本来、豪奢な鳥籠に飾られた宝石のように扱われる。

 家門の威信を映す器物として、幼いころから厳格な家庭教師につき従われ、書斎と舞踏室と礼拝堂だけを巡回する日々を送る。

 外気に触れる散歩すら侍女と護衛騎士の許可が要り、友と呼べる相手は礼儀の稽古台として選ばれた令嬢たちばかり。

 感情を表すことは慎ましさを欠くとされ、歓喜も悲嘆も絹の手袋の内側に押し隠すのが掟であった。

 けれど私のこの家に於ける扱いは、他家とは少々異なっていた。

 お父様もお母様も私を決して駒扱いなどはしない。

 先日、お父様は私と温室の薔薇を見て回り、美しい色合いの蕾を見つけると「これはお前のようだ」と頬を緩めていた。

 お母様も私に詩集を読んでくださったり、事あるごとに親子としての会話を欠かそうとはしない。

 侍女たちは常に傍らにいるものの、「娘が自分の足で考え、選ぶ目を養わねばならぬ」との父の方針で、庭園の散策路だけは好きに歩く自由を許されている。

 だからこそ、両親のこのなんというか、気のない返事が辛かった。

 実のところ両親は私の事など何とも思っていないのではないかという気すらする。

 私の考えすぎ──だと信じたい。

 しかし婚約者がいる身であるにもかかわらず、そう言った関係にない令嬢を腕に絡ませ、その姿を婚約者に見せるというのはどうなのだろうか。

 余りにも余りな侮辱ではないのか。

 私に対する侮辱というだけではない、サルバトリ侯爵家そのものに対しての侮辱──だと思うのだが。

「ほら、ミレイユ。そのようにおっかない顔をするでない」

 お父様は苦笑しながら侍女を手招きして、冷たい飲み物を用意するよう申し付けた。

 その柔和な仕草を見ながら、私は心の奥に溜め込んだ鬱屈がほんの少し和らぐのを感じていた。

「まあしかし……ミレイユがその様に気にしているのならば、儂からも陛下に一言言っておこう」

「あら、それはいいわね」

 お母様はお父様の言葉にいかにも満足そうにうなずく。

 そんな両親の様子を見ていると、次第に私は話をあまり大きくするのもどうか、というためらいが湧き上がってきた。

 二人とも穏やかで、争いを好まない気性なのだ。

 今回のことにしても、もしかすると私の気にしすぎかもしれないという気もしてくる。

「いえ……もう少し、私の気持ちを殿下に伝えてみようと思います」

 私が遠慮がちにそう言うと、お父様はますます頬を緩め、「そうかそうか」と朗らかに笑いだした。

 笑うたびに頬がたぷたぷと揺れるお父様を見ていると、もう少しお食事を控えていただいた方が良いかもしれない、とつい余計な心配をしてしまう。

 しかし、この場でそれを言うのは憚られるため、私は何も言わずにそっと視線を逸らした。

 侍女がトレーにのせた冷たい果実水を運んできて、それを口に運ぶと喉の奥までひんやりとした清涼感が広がる。

 少しだけ胸の中のざわつきが静まるような気がした。

「焦ることはないぞ、ミレイユ。殿下もまだ若いゆえ、いろいろと周りに惑わされているのだろう」

 お父様は柔らかな口調でそう続けた。

「しかし、そのような時だからこそ、お前の真心をしっかりと伝えなければな」

 その言葉はのんびりとしてはいたが、意外にも芯の通った響きがあった。

 ふと私は、両親が気にしていないように見えたのは、私を無闇に不安にさせないための優しさであったのだろうかと気が付いた。

 何かを言おうとして、しかしそれは呑み込み、私は静かにうなずく事にした。

 外はまだ明るく、庭園の緑が陽光を受けてきらきらと輝いている。

 お父様は冷たい果実水を美味しそうに飲み干しながら、再び満面の笑みを見せた。

 お母様もまた、その傍らでにこやかに微笑んでいる。

 その両親の姿を見ながら、私は自分が守られていることを改めて感じた。

 私の家──サルバトリ侯爵家は“毒蛇の巣”と呼ばれて恐れられている。

 ただそれは先代、先々代の謀略好きな気質と薄暗い過去のせいであり、お父様の代になってからはそういった面が表に出てくる事はない。

 両親は本当に優しく、私の事を想ってくれている。

 殿下に対する私の想いをどう伝えればよいのか、まだ明確な答えは出ていないけれど。

 それでも、この温かい家族がいる限り何とかなるような気がしてきた。

 ◆

 翌日、学園の広々とした廊下に朝の陽射しが柔らかく降り注いでいた。

 私が一歩ずつ静かに歩いていると、向かい側から王太子殿下がマルギット・セラ・ファレノ伯爵令嬢と連れ立って近づいてくる姿が目に入った。

 二人はまるで恋人同士のように肩を寄せ合い、囁き合っている。

 私は一瞬だけ躊躇したが、意を決して声をかけることにした。

「殿下、少しお話をよろしいでしょうか」

 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。

 殿下は私に気付くと露骨に眉をひそめ、一瞬で冷淡な表情を浮かべた。

「今はマルギットと話しているところだ。君と話すことなど特にない」

 まるで私が取るに足らない存在であるかのように言い放つと、殿下は肩をすくめてマルギット伯爵令嬢に目配せした。

 それを受けてマルギット伯爵令嬢が口元に細い指を添え、小さく笑いを漏らす。

「まあ、ミレイユ様はご自分がいつでも殿下のお相手を務められると思っていらっしゃるのかしら。お気の毒ですわね」

 彼女の嘲りを含んだ視線が私を刺した。

 廊下には他の生徒たちもおり、彼らの視線が痛いほど私に集中しているのを感じた。

 それでも私は感情を押し殺し、唇を引き締めた。

「殿下、私は……」

 言葉を続けようとしたが、殿下はそれを遮るように冷たい視線を投げかけるだけで、返答すらしようとはしない。

 その横顔は、この婚約そのものを忌々しく感じていることをあからさまに伝えているようだった。

 マルギット伯爵令嬢はそんな私の様子を楽しげに観察し、口角を微かに引き上げていた。

「ほら、行こう」

 殿下は促すようにマルギット伯爵令嬢の背を軽く押し、私を無視して通り過ぎてゆく。

 二人の後ろ姿を見送る私に、廊下にいた生徒たちの同情めいた視線が向けられた。

「ミレイユ様、お気の毒だわ」

 囁きが聞こえてきた。

「殿下も酷いことをする」

 別の声が静かに同意する。

 私は胸に苦しいものがこみ上げてくるのを感じつつ、それでも気丈に顔を上げることしかできなかった。

 このような辱めを耐えることが、高位貴族の娘としての務めなのだろうか。

 ふと、昨日のお父様とお母様の顔が頭をよぎる。

 心優しい二人は、きっと私がこのような状況に置かれていることを想像すらしていないだろう。

 こんな事がもうずっと続いている──そんな事をあの二人に伝えてはならない。

 この婚約は私だけの問題ではないのだ。

 お父様もお母様も優しいから、きっと気に病んでしまうだろう。

 責任を感じてしまうかもしれない。

 学園の廊下には明るい陽射しが変わらず注いでいたが、私の胸中はひどく暗く冷たかった。

 ◆

 その日の夜、夕食の席に着いた私は、あの学園での辛い出来事を両親には告げないことに決めていた。

 お父様もお母様も、私が学園で苦しい目に遭っているなどとは想像もしないであろうし、知られて心配をかけるのも申し訳ないと思ったからだ。

 だからこそ、私は努めて穏やかに微笑み彼らにこう告げた。

「今日、殿下とお話をしましたの。きちんと互いに話してみたら、ただの誤解だったということが分かりました」

 それを聞いたお父様は、ナプキンで口元を押さえながら満足そうに頷いた。

「そうかそうか。やはり儂の言った通り、一過性のものだったのだろうな。しかしミレイユ、よくぞ勇気を出して話し合ったな。偉いぞ」

 お母様もまた、満面に喜びを浮かべながら手を合わせた。

「本当ね。殿下との誤解が解けて本当に良かったわ。あなたがきちんと自分の気持ちを伝えられたからこそよ。私たちも安心したわ」

 二人がこれほど喜んでくれるのを見ると、胸がちくりと痛んだが、それでも私は両親を騙していることを悔いる気にはなれなかった。

「いいえ。私がきちんと話せたのは、お父様とお母様がいつも私を信じて励ましてくださったからですわ。ありがとうございます」

 そう言って微笑むと、お父様はますます頬を緩めて柔らかな笑い声をあげた。

 お母様も、そんなお父様の様子を見て幸せそうに微笑んでいる。

 二人がこのように私の些細な成功を心から喜び、安心している様子を見ると、やはりこれで良かったのだと思った。

 私が耐えれば済むこと。

 私が黙ってさえいれば、両親は傷つかずに済む。

 ◆

 その様に決意した翌朝。

 教室に向かって歩き出したその時、ふと視界の隅に見慣れた姿が映った。

 殿下だ。

 いつもその傍らを飾るように寄り添っているマルギット伯爵令嬢の姿はなく、珍しく殿下は一人だった。

 私が立ち止まり、静かな眼差しを向けると、殿下もまた私に気づいて足を止めた。

 次の瞬間──殿下の整った顔が歪んだ。

 ぞっとするような敵意が、その目に宿っている。

 なぜ、そんな目で私を見るのか。

 私が何かを口にするよりも早く、殿下は酷く冷たく、そして苛立ちを隠そうともしない瞳で私を射抜き、そのまま無言で踵を返した。

 足早に立ち去るその背中は、私の存在そのものが許せないとでも言うようだった。

 その場に残された私は、胸の奥がぐっと締めつけられるのを感じていた。

 まるで、私がひどく悪いことをしたかのような錯覚に陥ってしまうほどだった。

 ──私が何をしたというのだろうか

 殿下のあの視線は、明らかな嫌悪であった。

 ◆

 夕刻、学園から戻った私は制服の襟を整えながら玄関をくぐった。

 廊下には夕餉の支度を急ぐ侍女たちの足音が響き、漂う香草の匂いが一日分の疲れをそっと包む。

 けれど心は軽くならない。

 殿下の憎悪めいた視線が、まだ胸の奥で燻っている。

 執務室の扉が半ば開き、お父様の低い声が漏れていた。

 見慣れぬ黒外套の紳士が一礼しながら中へ進み、扉は音を立てて閉ざされる。

 珍しい、お父様自ら客人を迎えるなど。

 私は階段の陰に身を寄せ、扉越しに続く話し声を耳に留めた。

 言葉の端々に聞こえるのは王宮の事情──殿下の名も。

 夜は更け、客間の灯火が消えるまで二人は語り合っていた。

 最後に聞こえたお父様の声は、いつもの鷹揚さとは真逆の硬い響きだった。

 ◆

 朝。

 湯気の立つポタージュの向こうでお父様が緩く手を叩く。

「そういえば──ミレイユと殿下はいわゆる政略結婚になるわけだが、もし恋愛結婚が許される立場だったとすればどういう相手が良いのかね?」

 朗々としたその問いに、私は匙を止めた。

 なぜ今その話題を。

 胸に小さな棘が刺さる。

 それでも表情を崩さず、控えめに笑う。

「穏やかで、互いを尊重し合える方でしょうか。家柄より、心根を重んじる方が理想ですわ」

 母が薄く笑って瞳を細める。

「あなたったら。乙女に聞くには少し無遠慮よ」

 たしなめる声は柔らかいが、的は射抜いていた。

 父は肩をすくめ、申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「すまんすまん。つい気になってな」

 私は首を振る。

「いいえ。お心遣いありがとうございます。ですが──」

 言いかけて、昨夜の黒外套を思い出した。

 あの客人との話は、この質問と繋がっているのか。

 そう思ったがしかし。

「まああなたったら。少し食べすぎでしてよ」

「うむむ、しかし儂は白パンが好きなのだ。だがアリステラがそういうのなら少し控える事にしよう……」

 お父様の様子は普段とは変わりなく、美味しそうにもぐもぐとパンを沢山食べてお母様に叱られていた。

 私もお父様は少しお食事を控えたほうが良いと思う。

 頬などぷくぷくに膨れてしまって、可愛くはあるがやはり健康が心配になる。

 ◆

 翌日。

 本来なら王太子殿下が腰を下ろすべき場所がぽっかりと空いている。

 隣のマルギット伯爵令嬢の姿もない。

 私は机上の筆記用具に視線を落としながら、小さくため息を漏らした。

 ──また、あの二人で遠出でもしているのかしら。

 かつてあの二人は事もあろうに二人きりで遠乗りに出た事がある。

 殿下は悪びれる様子もなく「実に愉快だった」と笑顔で語った。

 あの時の胸焼けのような嫌悪感が胸に蘇る。

 婚約者としての面目を潰され続けるのは惨めだった。

 ──このまま婚約を続けて、果たして私は幸せになれるのだろうか。

 しかし、サルバトリ侯爵家と王家の結びつきは国王陛下の勅命である。

 北境の鉱山を管理する我が家は、王室に鉄を供給し、その軍備を支えている。そして侯爵家は、王室の強い後ろ盾を得て貴族院の反対派を抑えている。

 婚約破棄などという選択肢は、現実的には存在しない。

 重い気分のまま廊下を歩いていると、向こうから銀髪を揺らしながら歩いてくるアイズ・セラ・エスピオナージ伯爵令嬢の姿が見えた。

 彼女は情報通で、噂話の類に詳しい。

 更にいえば、同級生の多くが私に対して腫物を触るような所があるのにたいして、アイズさんは誰にでも公平で中立で、話しやすい所がある。

 私はのんびりと歩く彼女を呼び止めた。

「アイズさん、殿下は今日お休みのようですけれど、何かご存じありませんか?」

 間延びした独特な調子で、彼女は首をかしげて困惑したように答えた。

「それが~……私にもちょっと分からないのですよ~」

 思いがけない返事だった。学園のあらゆる噂話に精通している彼女が、殿下の動向を知らないなどということがあるだろうか。

「ええ、と~っても残念ながら」

 アイズは肩をすくめて答える。

 だが次に奇妙な事を言った。

「ミレイユさま。殿下がどこへ行こうとも、大切なのはあなたのお立場と自尊心ですわ~。それを忘れずに」

 自尊心。

 私はいまそれがズタズタになっている。

「では私はこの辺で~。何かお耳に入ったら真っ先にお伝えしますわね~」

 そう言って去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、私はさらに胸が重くなるのを感じていた。

 ──殿下は一体、何を考えているのか。

 昨日の朝食の席でのお父様の問いが再び胸に浮かぶ。

 もし恋愛結婚が許される立場であったなら、私は一体どんな相手を選ぶのだろう。

 穏やかで、互いを尊重し合える人。家柄や地位ではなく、心根の優しい人。

 殿下はそれとは正反対の人間だということを、私は改めて思い知らされていた。

 ◆

 その日の夜、食事の時間になってもお父様の席がぽっかりと空いたままだった。

「お母さま、お父様はどこへ?」

 銀の匙を置いて尋ねると、お母様はさらりとした金髪を耳に掛けながら微笑んだ。

「お仕事で遅くなるそうよ」

 先日わざわざ屋敷を訪ねてきた黒外套の客人──あの人と関係があるのだろうか。

 胸の奥で疑問が膨らむのを感じ取ったのか、お母様は柔らかい声で続ける。

「大丈夫よ、あの人はやる時はやる人だから」

 励ましなのか、何らかの示唆なのか判別がつかず、私は「はい……」と曖昧に頷くしかなかった。

 食事をとりながら、話題は自然とお父様の運動不足へ転じる。

 お母様は指を一つ立てて、「あの人、最近またぽっちゃりしちゃって」と軽くため息を漏らし、私は「お庭の散歩くらいは日課にしていただきたいですね」と笑った。

 二人で笑ううち、不安の棘はわずかに鈍った様な気がした。

 ◆

 夜更け。

 書物を開いても文字は頭に入らず、私はろうそくを吹き消した。

 暗い天井を見つめても眠気は訪れない。

 いっそ外気に当たろうとショールを羽織り、廊下を抜けたところで玄関扉がきしんだ。

「おおっ、こんな時間にどうしたのだ?」

 ランタンを掲げたお父様が立っていた。

 上着の襟には夜霧が白く付いている。

「少し眠れなくて……お庭をちょっと歩こうかなと思っていたのです」

「そうか……ふむ、では儂も一緒に散歩して良いかな?」

「ええ、もちろんです」

 ◆

 皐月の夜気はひんやりとして薔薇の香が濃い。

 月光を受ける白藤の前でお父様は不意に足を止め──

「ミレイユや──」

 穏やかな声が私に向けられる。

「儂は……いや、儂もアリステラもお前を愛しておる。お前が幸せかどうかは儂らにとっては政治的な利害関係云々よりも大切なものなのだ。だが、娘であるお前にこんな事を言っていいのかわからぬが、お前も儂らの事を考えてほしいと思っておる」

「お父様とお母様の事を……?」

 何を意味するのか掴めない。

 けれど、なんとなく今とても大事な話をしているのだと思った。

「うむ。お前が幸せならばそれは儂らを幸せにするのと同じだし、その逆もまた然りじゃ。家族というものはそういうものではないか? まあ我慢をしてもらう事もあるとは思うがね。やはり貴族として最低限の……というものはある。そこはミレイユも理解できるじゃろう? ただ、それでも何もかもを我慢する必要はないと儂は思う」

 花弁をそっと撫でながら、私は静かに頷いた。

「ふう……まあ、良い。そろそろ部屋に戻ろうか。少し歩き過ぎたわい……」

 軽く腰を叩くお父様に、私はいたずらめいた笑みを向ける。

「お父様、ちゃんと運動をしてください。お父様が太り過ぎて健康を害したら、それは私を不幸にするのと同じですよ?」

「うむむ……」

 頬をぷくりと膨らませて苦笑する様は、月下の大輪よりも愛おしかった。

 ◆

 翌朝。

 教室の扉を開けると、窓辺の席に殿下がいた。

 しかし隣に映えるはずの艶やかな栗色の髪──マルギット伯爵令嬢の姿はない。

 殿下と目が合った。

 しかしすぐに逸らされてしまう。

 ──無視、か。

 ただ、だからといって放置してしまうと後が面倒なのだ。

 なぜお前はあの時無視をした、僕を軽視しているのか──とくる。

 私は歩み寄り、挨拶をした。

「おはようございます、殿下」

 殿下は背筋を正し、乾いた声で返礼した。

「……おはよう」

 その声音は、昨日までの傲慢さをどこかに置き忘れてきたかのように生真面目だ。

「マルギット様は……?」

 問うと、殿下の肩がびくりと跳ねた。

「ッ……! か、彼女は居ない……僕は知らない」

 絞り出すような声。

 何かを恐れる子どものように、殿下はそれ以上語らず視線を落とした。

 結局そのまま授業が始まり、そして終わり。

 終始そんな感じで、私は殿下とまともに話すこともできないままに学園を後にした。

 ◆

 夜──食卓の雰囲気がいつもと違うことに気づいた。

 執事が銀の蓋を外す硬質な音さえ、やけに耳に痛い。

 席に着くやいなや、お父様とお母様は互いに短い視線を交わし合った。

 私は胸の奥の棘を抱えたまま微笑みを作り、意図を測りかねるその沈黙を切り裂く。

「お父様、お母様……何かございましたか?」

 小さく問いかけると、お父様は姿勢を正し、深い溜息を一つ落としてから口を開いた。

「ミレイユよ──婚約者が、代わる事になった」

「そう……ですか」

 喉の奥で震えた声が思ったよりもしっかりと響く。

 お父様は眉尻をへにゃりと下げる。

「嫌かの?」

「いえ、そうではありません。少しだけ驚いただけで……」

 正直に言えば驚きよりも安堵の方が勝っていた。

 新たな婚約者は第二王子のヨハン様──書を愛する物静かな方と聞く。

 恋人を侮蔑のために見世物にするような悪趣味をお持ちとは思えない。

 胸に巣食っていた苦味が、薄い霧のように晴れてゆく。

 お父様は頬を緩めながら続けた。

「儂も何度か会っておるがの。ミレイユより年下じゃが、随分と大人びておったぞ」

「まあ、それは私が子供っぽいという事ですか?」

 わざと肩をすくめて笑うと、お父様は慌てて掌を合わせた。

「すまぬすまぬ、そういう事ではない」

 お母様も袖口で口元を隠しながらくすりと笑う。

 私は茶器を持ち直し、ふっと息を吐いた。

「でも、なぜ突然……」

 問いかけに、お父様は視線を上げて天井の漆喰を仰いだ。

「さてのう……陛下に振り回されるのは今回に限った事ではないからのう」

「そうですわねぇ」

 お母様の穏やかな相槌の奥に、わずかな諦観が滲む。

 お二人は何かを知っていらっしゃる。

 けれど私に告げないということは、知らぬ方がきっと幸福──そう判断されたのだろう。

 私は黙ってナプキンをたたみ直し、その沈黙を了承で包んだ。

 食後のデザートが運ばれる頃、お父様が軽く手を打った。

「おお、それとな……早速なのじゃが今度の聖日にヨハン殿下が訪問される。だから予定を入れないでほしいのだが大丈夫かの?」

「どうしても何か用事があるなら言ってちょうだいね」

「いえ、予定はありません。大丈夫です」

 言葉に出すと、未来が音を立てて動き出すのを感じた。

 お父様は満足げに頷き、たぷりとした頬をさらに緩ませた。

「よし、決まりじゃな」

 夜空の深藍を映す窓ガラスが、ランプの灯りで金色に揺れる。

 その揺らぎの向こうで、私の新しい運命が静かに輪郭を結び始めていた。

 ◆

 聖日までは、まさにあっという間だった。

 学園へ通っている間、アデル殿下は徹底して私と不干渉を決め込み、マルギット伯爵令嬢も相変わらず不登校のままだ。

 私はと言えば、これまでのように二人から自尊心を切り裂かれ続ける日々に比べれば雲泥の差で、正直なところ安らぎすら覚えている。

 もちろん婚約相手が突然代わったという重大事実そのものは不安だが、あの辛辣な視線に晒されずに済む学園生活はむしろ私にとって救いとさえ言えた。

 そして迎えた聖日当日。

 午前中の早い時刻、先触れの者が我が家へ到着し、第二王子ヨハン殿下がお越しになる旨を伝える。

 お父様やお母様は落ち着いた様子で支度を進め、私は侍女たちの手を借りて礼装に着替えた。

 緊張をやわらげるようにそっと深呼吸してから、使用人に案内されて客間へと向かう。

 そこには既にお父様とお母様が控えており、部屋の正面奥には背筋を伸ばして佇む少年が一人。

 艶のある黒髪に柔和な面差し──彼が第二王子のヨハン殿下だろう。

 私が静かに礼を示すと、殿下は柔らかな微笑みを浮かべて一礼を返してくださった。

「お会いできて嬉しいです」

 あどけなさの残る声。

 だが仕草には落ち着きがあり、真摯な人柄が窺える。

 その殿下の背後で、護衛と思しき騎士が厳かに立ち、侍女たちが遠巻きに様子を窺っている。

 お父様とお母様がまずは簡単な言葉を交わし、そして私に視線を向けた。

「ではミレイユ、殿下としばしお話をなさい」

 お母様に促され、私は殿下の前へ進んで挨拶をする。

 お父様が穏やかに目を細めてこちらを見るのを感じながら、私は声を落ち着かせて口を開いた。

「本日はようこそお越しくださいました。お目にかかれて光栄です」

「こちらこそ、お招きありがとうございます。あなたのことはルーファウス殿から聞いておりますよ。書が好きなのだとか?」

 ルーファウスとはお父様の名前だ。

 ちなみに、ルーファウスという名は古い言葉で“長い牙”を意味するらしい。

 母上はアリステラ──こちらは“長い腕”だ。

 殿下の口ぶりによると、お父様が私の趣味について伝えていたらしい。

 お父様はいかにものんびり屋に見えて、何事にも抜かりがない。

 私は小さく笑みを返しながら頷いた。

「はい。幼い頃から本に触れる機会が多く、自然と好きになりました。詩集や史書、それから物語も幅広く読んでおります」

「それは素敵ですね。実は私も、王宮の書庫へ通うのが好きでして。小さな頃から兄上が武芸の訓練をされている間、私はよく文献を漁っておりました。そのせいか、騎士たちからは“ひ弱な王子”などと言われたりもしましたが……」

 思わず、私はくすりと笑ってしまった。

 本人の目の前で言うなど失礼なのはわかっているが、それでも隠しきれない。

 けれど殿下自身も微笑ましげで、嫌な顔をされなかったことに安堵する。

「私も、あまり体を動かすのは得意ではないんです。舞踏の授業などは侍女にしごかれてばかりで……。本を開いている方がよほど気楽に思えてしまうくらい」

「はは、それは同感です」

 そこから先は、あまり形式ばった言葉は交わさなかった。

 互いに好きな著作家や詩人の名前を挙げ、その作品の魅力について熱心に語り合う。

 まるで同年代の学友と話しているかのように楽しい時が流れていった。

 そうして話が弾むうち、大分時が経過していたらしい。

 ふと気づけば、外の空模様は夕闇の気配を帯び始めている。

 殿下の従者が控えめに合図を送り、殿下が少し残念そうに小声で漏らした。

「そろそろお暇する時間のようです」

 私も名残惜しさを覚えながら腰を上げ、殿下と向かい合う。

 いざ別れの挨拶を交わそうとした時、ずっと心の中を燻っていた疑問がどうしても抑えきれずに口を衝いて出た。

「今回の婚約者の変更……ヨハン様は何か理由をご存じないですか?」

 私の問いに、殿下は一瞬だけ目を丸くしたように見えた。

 それから複雑そうな表情を浮かべ、苦笑気味に首を横へ振る。

「……もしかして、まだ兄上を想っているのですか?」

「いいえ、アデル殿下には未練はありません。ただ……純粋に気になってしまったので」

 嘘ではない。

 殿下に対し、今更恋情など持ち合わせていない。

 ただ、なぜ突然王太子が私との婚約を破棄して、こうして第二王子が引き継ぐ形になったのか──その事情だけが腑に落ちないのだ。

 殿下はしばし逡巡するように沈黙を落とし、それからこちらに申し訳なさそうな視線を向けた。

「理由は知っています。ただ、それを今私がここで話す事はやめておきましょう。その理由も、できれば聞かないでいただけると嬉しいです」

 謎めいた言葉に胸の内がざわつく。

 しかし同時に、殿下の大人びた表情から何かしら言えぬ事情があるのだろうと察せられた。

 私は少し肩を竦め、頭を下げる。

「わかりました。変な事を聞いてしまい申し訳ありません」

「いいのです。気になって当然ですから。それより、私としては──あなたとこうして婚約を結べたことを喜んでおります。ルーファウス殿に、心から感謝しなくては」

 瞳を伏せて語る殿下の声には、少し照れが混じっているようにも聞こえた。

 私の胸にも小さな安堵と熱が灯る。

 あれほど苦しめられてきた婚約という枷が、こうも穏やかに、むしろ前向きな出会いへと姿を変えるとは思わなかった。

「……ありがとうございます」

 私が深々と礼をすると、殿下は優しい微笑みを湛えたまま会釈を返してくれた。

 ◆

 その夜、食事の席に着いた私は、改めてお父様とお母様に礼を伝えることにした。 

「今日はお父様とお母様のおかげで、とても素敵な時間を過ごせました。お父様とお母様には感謝しています」

 そう切り出すと、お父様は嬉しそうに目元をくしゃりとさせ、頬をたぷたぷと揺らして満面に笑みを浮かべた。

 笑うたびに大きく上下するその頬は見ているだけでほのぼのしてしまう。

 お父様は上機嫌な声色で言葉を繋いだ。

「そうかそうか。といっても儂らも寝耳に水の事だったのだがな。ともあれ上手く話がまとまって良かったわい」

 お母様はそんなお父様の様子に目尻を下げて微笑んでいる。

 そしてふとお父様のお腹回りをちらりと見て、からかうような口調を洩らした。

「あらまあ、あなたったら。また少しお肉が増えていませんか?」

 するとお父様は、まるで子供のように「うむむ……」と困ったご様子。

「あら、可愛い」

 お母様の言い様もとてもかわいらしく、私は思わず微笑ましい気持ちになり、二人の間に流れる穏やかな空気を胸いっぱいに味わった。

 お父様とお母様は普段のんびりとしているようで、実は私のことを誰よりも気にかけ、支えてくれている。

 時には軽口を叩きながらも互いをきちんと思いやっている関係が何とも心を和ませるのだ。

 ──ヨハン様とも将来こんなふうに自然に笑い合い、時には冗談を言い合えるような夫婦になれるのだろうか。

 そう考えると、ふんわりと身体の内側が温まるような感覚がした。

 ・
 ・
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 ◆◆◆

 奥まった場所に設えられた執務室は、高位貴族の居室と呼ぶに相応しい調度品の数々を湛えていた。

 そんな部屋の中央には机を挟んで二人の男が向かい合っていた。

 一人は細身の美丈夫。

 もう一人はたっぷりと身を肥やした男だ。

 細身の男の名はファレノ伯爵。

 対するふくよかな男は、丸みを帯びた頬をぷるりと揺らしながら、静かな眼差しで伯爵の挙動を見つめていた。

 少し離れた位置から見れば、ただ話し合っているようにも見える。

 張り詰めた空気こそ流れているが、ふくよかな男は微動だにせず、鷹揚な様子を崩してはいない。

 彼らがいったいどんな話をしているのか──もう少し耳を澄ましてみよう。

 ふと、細身の伯爵が弾かれたように膝を床についた。

 頭を垂れ、明らかに謝罪の意を表している。

 肥えた男はわずかにまぶたを伏せて、困ったように声を漏らした。

「ふむ、ファレノ伯爵。お立ちくだされ。急ぎの話があるとの事、ちょうど儂も予定が空いていたからこうして足を運んでみれば……。儂にはその様に謝罪される謂れはありませんぞ」

 ところが伯爵はその言葉に縋るように顔を上げ、必死の形相で絞り出す。

「どうかッ……! どうか娘をお返しください侯爵!」

 大理石の床に広がる声が震えていた。

 それを聞きながら、肥えた男はほんの少し首を傾げる。

「娘……ああ、あのマルギットとかいう小娘ですかな? どうされたのです?」

 当の伯爵は懸命に言葉を継ぎ足そうとするが、喉が引きつり上手く声が出ないらしい。

 しばし唇を震わせたのち、次の瞬間には悔しげな怒気を含んだ声音を吐き出した。

「ごまかさないで下さい! 護衛の者が見たのです……刺客が持つ、波打つ蛇のごとき得物を! それをわざわざ見せつけながらも当家の護衛を殺さなかったのは、まだ交渉の余地があるという事ではないのですか!?」

 伯爵の声は追い詰められた男の叫びそのものだ。

 しかし、肥えた男の表情は揺るがない。

 むしろ親しみさえ浮かべているようにも見えるが、瞳の奥にはぎらりとした鋭い光を宿している。

 しばしの沈黙。

 肥えた男はゆっくりとまぶたを閉じ、やがて視線を伯爵へ戻すと、穏やかな声音で言った。

「当家の本質を知る者は今はもう少ない。しかしファレノ伯爵は当家がどのような家か、よくよく理解している様だ。……しかしなぜそこまで分かっていながら、マルギット嬢は──」

 言葉が途中で止まったのと同時に、肥えた男は伯爵が床に垂れている髪を大きな手で掴み、そのまま自分の顔の高さまで引き上げる。

 突然の荒々しい仕打ちに、伯爵の瞳がみるみる恐怖に染まった。

「“おいた”をしたのかな? 教えてくだされ、ファレノ伯爵。“耳”から色々と聞いておりますぞ、色々とね」

 穏やかな口調だった。

 しかし発される気配は宛ら毒蛇が鎌首をもたげるかのよう。

 ファレノ伯爵は掴み上げられたままの姿勢で、死に物狂いの声を吐き出した。

「む、娘は……娘は本当に愚かで……しかし一人娘という事もあり、少々甘やかしすぎたというのが事実です……。決して侯爵家と王家の繫がりに横入りしようなどとは……」

 伯爵の言葉に、肥えた男はわずかに鼻を鳴らす。

 そしてひと呼吸おいて、ゆるやかな調子で続けた。

「なるほど、娘は可愛いものですからな。儂も目に入れても痛くないほどにミレイユを愛しておりますぞ。だからこそ業腹なのです……ファレノ伯爵家もそして王家に対しても。儂も最近では“家業”に手を付けておりませぬ──今はそういう時代ではないゆえに。しかしね、余りにも舐めた事をしてくれるなら、今一度思い出させてやろうかと思っていたのですよ。儂らは代々そうして生きてきたのです。王家とは“契約”がありますがね、別にすげ替わってしまっても、儂にとってはどうでもよい話なのです。まあそういう我が家だからこそ、王家は毒を盛られるより毒を盛る側に回ろうと縁を強めようとしたのでしょうが」

 いつまでも柔和な面差しのまま、彼は深々と息を吐く。

 まるで厄介な相談を持ちかけられた時のような辟易した口調だった。

「マルギット嬢が愚かだというのならば、どこぞへ押し込めておくのですな。恐らく今夜のうちには戻るでしょう。アデル殿下にも良い機会ですからしっかりお話をさせていただきました。陛下も同席の上でね」

 肥えた男がそう言い放つと、伯爵は掴まれていた髪をぶらりと揺らしながら、壊れた玩具のように何度もうなずく。

「儂はね……家族を大切に想っております。ですから、家族以外の者がどうなったところで儂はどうでもいいのですよ。ただ、“伯爵家がまるごと消える”なんて事になれば王都も騒がしくなるでしょうから、今回交渉の余地を与えましたがな。別にファレノ伯爵家が今後王都で何をしようが知った事ではありませぬ。しかし、何をするにせよ、当家の者にどのような影響を与えるかはしっかり考えてから実行する事ですな」

 そう言い終えると、肥えた男はようやく伯爵の髪を放し、無造作に手を振り払う。

 伯爵は体の支えを失い、かすれた声を喉奥で殺したまま顔を伏せてしまった。

 そうして身を翻し、部屋を出ていく──寸前に、一言。

「次はない」

 ファレノ伯爵は今度はゆっくりと、言葉を吟味するようにして頷いた。