過保護な医者に心ごと救われて 〜夜を彷徨った私の鼓動が、あなたで満ちていく〜

「帰るぞ、神崎。」

先輩医師の声に、男は立ち上がった。
何も言わず、ただ一度だけ振り返ると、視線を雪乃に残して去っていった。
その視線の意味は、雪乃にはわからなかったし、考える気力もなかった。

店内の喧騒が薄れ、営業終了後のバックヤードに戻った彼女は、ロッカーに寄りかかるように腰を下ろす。

――目の奥が重い。
鼓動は少し速い。
いつものことだった。

「……もっと薄めればよかった。」

誰にも届かない声で、つぶやく。

心臓に穴がある――そんな自分が酒を飲むなんて、正気じゃない。
ましてや、酒を飲むことが前提の仕事など、本来なら真っ先に避けるべきだ。

でも、それが命綱だった。

客と飲まなければ、お金にならない。
売上がなければ、収入にならない。
収入がなければ、家賃も払えず、明日の食事も危うい。
そして何より、金がないと――父親に“殴られる”。

「……命を削って、金にしてる。」

乾いた笑みが漏れた。
まるで悪魔に魂を売ったような仕事だと思う。
でも、悪魔の手の中しか、自分が生きられる場所はなかった。

以前、一度だけ倒れた。
店内で意識を失い、救急車を呼ばれた。
目が覚めたときには病院のベッド。
十数万円の請求書が、枕元に置かれていた。

保険がない。
それが、どれだけ生きづらいことか。
体調が悪くても、病院に行けない。
助けを求めても、請求が襲ってくる。

あれ以来、誓った。

絶対に人前で意識を手放してはならない。
救急車には、絶対に乗らない。
どれだけ苦しくても、目を閉じてはいけない。
たとえ死にかけていても、救急搬送は“借金”にしかならない。

「……サインすれば拒否できるって、誰かが言ってたな……。」

でも、倒れてしまえば、そのサインすらできない。
気を失った瞬間、選択肢すら奪われる。

そんな生き方に、意味なんてあるのか――ふと、そんな思いが胸をかすめた。

けれど、不思議と恐怖はなかった。

悲しむ人なんて、いない。
誰かが自分を必要とするわけでもない。
ただひっそりと消えていくなら、それも「あり」なのかもしれない――そう思った。

そう思えてしまうことが、一番怖いのだと、雪乃は気づいていた。