母がいなくなってからの生活は、まるで時間が止まったようだった。
父の怒鳴り声と、乾いた缶が転がる音と、テレビのつけっぱなしの映像音だけが、家の中に響いていた。
高校生のある夜、雪乃は静かに玄関の靴を履いた。
父親は酒に溺れ、イビキをかいてソファで眠っている。
これなら――今なら――。
何の当てもなかった。
ただ、とにかくあの男の手が届かない場所へ行きたかった。
それだけだった。
アパートの階段を、できるだけ音を立てないように降りていく。
手すりに軽く指を添えながら、足音を忍ばせるようにして。
けれど、急に襲ってきたふらつき。
息が詰まるような胸の苦しさ。
次の瞬間、足を滑らせた。
「――っ」
掴もうとした手すりは空を切り、残り三段を大きな音を立てて滑り落ちた。
その音で、すべてが終わった。
家出という名の小さな反抗は、あっけなく幕を下ろした。
すぐに父に見つかり、腕を掴まれて引きずられるように家に戻された。
玄関の扉が閉まる音がやけに重たく響いた。
壁に背中を押し付けられ、逃げ場を塞がれる。
怒鳴ることなく、むしろ淡々と、服で隠れる場所――腕や脇腹をつねられたり、爪を立てられたりした。
それは暴力というには静かすぎて、逆に深く恐ろしかった。
「お前は逃げられないんだよ」
その声は、雪乃の耳にずっと残っている。
逃げ場なんてないと、心に焼きつけるように。
――でも、昔は違った。
思い返せば、家族は普通だった。
むしろ、あたたかい部類だったと思う。
雪乃が生まれたとき、両親は心から喜んでくれた。
父はビジネスホテルの支配人をしていた。
母は地元の総合病院で、夜勤をこなす看護師だった。
休日には3人で公園へ行き、夜は母の手料理を囲んだ。
父の笑顔はまぶしくて、母の手はいつも優しかった。
だけど――変わった。
父の勤めるホテルが経営難に陥り、倒産。
仕事を失った父は、再就職もせずに母の稼ぎだけで生活を回しはじめた。
母は夜勤明けでも、文句ひとつ言わず働き続けた。
倹約すれば、再建も不可能ではなかったはず。
けれど、父は現実から目を背けた。
ギャンブルに手を出し、金が尽きれば酒を買い、酔っては暴言を吐き、物を壊した。
やがて、その矛先は家族へと向いた。
母は――耐えかねたのだろう。
ある日、何も言わず、家を出て戻らなかった。
残されたのは、暴力と怒号と、どこかで擦り切れた父。
そして、それに怯えながらも、必死に息を潜めて暮らす自分。
この頃からだった。
動悸や息切れが、日常になっていったのは。
父の怒鳴り声と、乾いた缶が転がる音と、テレビのつけっぱなしの映像音だけが、家の中に響いていた。
高校生のある夜、雪乃は静かに玄関の靴を履いた。
父親は酒に溺れ、イビキをかいてソファで眠っている。
これなら――今なら――。
何の当てもなかった。
ただ、とにかくあの男の手が届かない場所へ行きたかった。
それだけだった。
アパートの階段を、できるだけ音を立てないように降りていく。
手すりに軽く指を添えながら、足音を忍ばせるようにして。
けれど、急に襲ってきたふらつき。
息が詰まるような胸の苦しさ。
次の瞬間、足を滑らせた。
「――っ」
掴もうとした手すりは空を切り、残り三段を大きな音を立てて滑り落ちた。
その音で、すべてが終わった。
家出という名の小さな反抗は、あっけなく幕を下ろした。
すぐに父に見つかり、腕を掴まれて引きずられるように家に戻された。
玄関の扉が閉まる音がやけに重たく響いた。
壁に背中を押し付けられ、逃げ場を塞がれる。
怒鳴ることなく、むしろ淡々と、服で隠れる場所――腕や脇腹をつねられたり、爪を立てられたりした。
それは暴力というには静かすぎて、逆に深く恐ろしかった。
「お前は逃げられないんだよ」
その声は、雪乃の耳にずっと残っている。
逃げ場なんてないと、心に焼きつけるように。
――でも、昔は違った。
思い返せば、家族は普通だった。
むしろ、あたたかい部類だったと思う。
雪乃が生まれたとき、両親は心から喜んでくれた。
父はビジネスホテルの支配人をしていた。
母は地元の総合病院で、夜勤をこなす看護師だった。
休日には3人で公園へ行き、夜は母の手料理を囲んだ。
父の笑顔はまぶしくて、母の手はいつも優しかった。
だけど――変わった。
父の勤めるホテルが経営難に陥り、倒産。
仕事を失った父は、再就職もせずに母の稼ぎだけで生活を回しはじめた。
母は夜勤明けでも、文句ひとつ言わず働き続けた。
倹約すれば、再建も不可能ではなかったはず。
けれど、父は現実から目を背けた。
ギャンブルに手を出し、金が尽きれば酒を買い、酔っては暴言を吐き、物を壊した。
やがて、その矛先は家族へと向いた。
母は――耐えかねたのだろう。
ある日、何も言わず、家を出て戻らなかった。
残されたのは、暴力と怒号と、どこかで擦り切れた父。
そして、それに怯えながらも、必死に息を潜めて暮らす自分。
この頃からだった。
動悸や息切れが、日常になっていったのは。



