「あの人は……」
そう問いかけた神崎の声は、穏やかで、どこか雪乃の心をすくい上げるような響きをしていた。

「父です。定期的に来ては……お金の無心を」

答える声は、静かだった。
感情を押し殺したように低く、でも少しだけ震えていた。
言葉にした瞬間、どこかで何かが崩れたような、そんな感覚が胸の奥で弾けた。

それでも神崎の表情は変わらなかった。
ただ、黙って頷きながら、そっと雪乃の手首に指を添えた。
冷えた手に、温かな体温が触れる。
その手つきは迷いなく、ただ必要なことをする医師のものだった。

だけど、心が変なふうに跳ねた。
胸の中で、さっきまでの苦しさとは違う、きゅん、という音がした気がした。
それは戸惑いと、なにかほぐれていくような温もりを伴っていた。

「眠れてますか?」

彼はそう言って、雪乃の手をベッドの上に静かに戻す。
その所作にも、優しさと配慮がにじんでいた。

「はい。多分、前よりは。途中で目が覚めたりも、なくなって……」

自分でも驚くほど、言葉がすっと出た。
本当は、他人にこんなことを話すのは苦手なのに。

神崎は静かに頷いた。
その仕草に、嘘のない安心感が宿っていた。

「食事はどうですか?」

「最近、お弁当屋さんで日中バイトを始めて、そこでいただく手作りのご飯もあるので……今までで一番、食事は取れていると思います」

報告する自分の声が、少しだけ誇らしかった。
ちゃんと頑張ってることを、誰かに伝えたくて。
それが、目の前の神崎で良かったと、そう思っていた。

彼はまた、頷いて微笑んだ。
「そうですか。よく頑張ってますね」

その一言が、心の奥深くにじんわりと染み渡る。
褒められるなんて、いつ以来だっただろう。
こんなふうに、まっすぐな眼差しで。

「発熱はしていませんか?」

「はい、あれから一度も……あと、薬ありがとうございました」

その言葉を聞いた神崎が、ほっと安堵したように表情を緩めた。
その顔を見て、雪乃の中にまたひとつ、小さな温もりが灯った。

――この人がいるだけで、こんなに心が軽くなる。
誰かが自分を気にかけてくれることが、こんなにも救いになるなんて、忘れていた。

胸の奥がじんと熱くなる。
少し涙がにじんだ。
けれど、それは悲しみではなかった。