夜の出勤準備をしていると、スマホが震えた。
画面に表示されたのは、見覚えのある名前。

——「お金、工面してくれ〜」

父だった。
それだけの短い文に、胸がきゅっと締めつけられる。

雪乃は静かに息を吐いた。
もう何度目かわからない、あの人からの無心。

「もうお金は渡せない。連絡してこないで。」

そう、短く打って返信を送った。
既読がついても、返事はなかった。
電話もなかった。
それきりだった。

心の奥で、何かがきしむような音がしたけれど、今はもう、振り返る時間はなかった。

時計を見て、家を出る時間を過ぎていることに気づく。
「しまった」
慌ててバッグを掴み、鍵をかけ、急いで玄関を飛び出す。

夜の空気が肌に冷たく感じる。
走る足が、アスファルトを小刻みに叩く。
息が上がる。
それでも止まれない。

お店に滑り込むと、篠原がカウンターの奥から顔を出した。

「10分遅刻だぞ。気をつけろよ」

鋭い声ではあるけれど、どこか心配を含んだ響き。
雪乃は浅く息を整えながら、小さく頭を下げた。

「すみません……」

急ぎ足で更衣室へ向かい、ドレスへと着替える。
ネックレスの留め具を急ぎながら、ふと胸に違和感を覚えた。

ずん、と。
胸の奥に重りがのしかかっているような、あの感覚。

……まただ。

けれど、耐えられないほどじゃない。
「大丈夫。これくらいなら……」

そう自分に言い聞かせ、姿見の前に立つ。
整った髪、口角の上がった表情、背筋の伸びた立ち姿。

「よし」

気合いを入れて、ナナは表へと歩き出した。
キャバクラのまばゆい照明が、彼女の影を引き延ばしていた。
今日もまた、戦場が始まる。