夕方。
空が朱色に染まり始めた頃、雪乃はアパートの鏡の前でリップをひと塗りし、ゆっくりと口角を上げた。
今日は、体が軽い。
息切れもない。
胸のあたりも、しんと穏やかだった。
メイク道具を片づけ、髪を巻いたアイロンのスイッチを切ると、
「よし」と小さく呟いて、ハンドバッグを肩にかけた。
室内の明かりを消して玄関を出る。
夜風は涼しく、汗ばむこともなく、駅までの道のりが妙に心地よかった。
街のネオンが灯り始めるころ、ビルの一室にある店のドアを開ける。
「おはようございます」
雪乃が言うと、カウンター越しに篠原が手を振った。
「ナナ、今日は顔色いいな。調子良さそうじゃん」
「ええ、まぁ。無理してないですよ、ほんとに」
笑って答えながらロッカールームへ。
ドレスに着替え、軽く髪を整え、香水を手首にひと吹き。
深呼吸をして鏡に向かい、いつもの“ナナ”の顔を作る。
フロアに出ると、すぐに初回の案内が入る。
「いらっしゃいませ」
いつもより少しだけ明るい声が出た。
相手の顔をよく見て、会話の糸口をすばやく探す。
「お仕事、お疲れさまでした。今夜はどんな気分で?」
自然な笑みで問いかけると、相手の口元が緩んだ。
「あー、癒されたいかな」
「それなら任せてください。疲れ、少しは飛ばせると思いますよ?」
そんなやり取りの一つひとつが、今夜は妙に楽しかった。
どこか、心に余裕がある。
“やらなきゃ”じゃなく、“できる”と感じられる。
飲み物の注文もスムーズで、グラスを傾ける手にも力が入っていない。
他のキャストにさりげなく気を配る余裕すらあった。
ふと、空いたグラスを見て笑いかけた客が言った。
「ナナちゃん、今日すっごい調子いいね。癒されるよ」
「ほんとですか?じゃあ、もう一杯……?」
「うん、いっちゃおうかな」
その笑顔に、心の底から応えられる自分がいた。
今日の“ナナ”は、ただの仮面じゃない。
“雪乃”の芯にある強さが、少しずつ顔を出していた。
自分を守るために生きるだけじゃなく、
未来を信じて前に進むために働いてる──
そんな実感が、夜の空気を少しだけ柔らかく変えていた。
空が朱色に染まり始めた頃、雪乃はアパートの鏡の前でリップをひと塗りし、ゆっくりと口角を上げた。
今日は、体が軽い。
息切れもない。
胸のあたりも、しんと穏やかだった。
メイク道具を片づけ、髪を巻いたアイロンのスイッチを切ると、
「よし」と小さく呟いて、ハンドバッグを肩にかけた。
室内の明かりを消して玄関を出る。
夜風は涼しく、汗ばむこともなく、駅までの道のりが妙に心地よかった。
街のネオンが灯り始めるころ、ビルの一室にある店のドアを開ける。
「おはようございます」
雪乃が言うと、カウンター越しに篠原が手を振った。
「ナナ、今日は顔色いいな。調子良さそうじゃん」
「ええ、まぁ。無理してないですよ、ほんとに」
笑って答えながらロッカールームへ。
ドレスに着替え、軽く髪を整え、香水を手首にひと吹き。
深呼吸をして鏡に向かい、いつもの“ナナ”の顔を作る。
フロアに出ると、すぐに初回の案内が入る。
「いらっしゃいませ」
いつもより少しだけ明るい声が出た。
相手の顔をよく見て、会話の糸口をすばやく探す。
「お仕事、お疲れさまでした。今夜はどんな気分で?」
自然な笑みで問いかけると、相手の口元が緩んだ。
「あー、癒されたいかな」
「それなら任せてください。疲れ、少しは飛ばせると思いますよ?」
そんなやり取りの一つひとつが、今夜は妙に楽しかった。
どこか、心に余裕がある。
“やらなきゃ”じゃなく、“できる”と感じられる。
飲み物の注文もスムーズで、グラスを傾ける手にも力が入っていない。
他のキャストにさりげなく気を配る余裕すらあった。
ふと、空いたグラスを見て笑いかけた客が言った。
「ナナちゃん、今日すっごい調子いいね。癒されるよ」
「ほんとですか?じゃあ、もう一杯……?」
「うん、いっちゃおうかな」
その笑顔に、心の底から応えられる自分がいた。
今日の“ナナ”は、ただの仮面じゃない。
“雪乃”の芯にある強さが、少しずつ顔を出していた。
自分を守るために生きるだけじゃなく、
未来を信じて前に進むために働いてる──
そんな実感が、夜の空気を少しだけ柔らかく変えていた。



