帰宅すると、雪乃はふうっと小さく息を吐いた。
冷房の効いた部屋に一歩入った瞬間、外にいたときの暑さがふわりと体から抜けていく。

「お疲れさま。……水、飲もうか?」

「うん……」

大雅が冷蔵庫から取り出してくれたグラスを受け取り、雪乃は一口。
喉をすべる冷たい水が、ほてった体の奥にまで沁みわたっていく。

「けっこう歩いたよね。……えらい、ほんとによくがんばった」

その言葉はただのねぎらいじゃない。
優しさと誇らしさがたっぷり込められていて、まるで褒美のようだった。

「えへへ……ありがと」

雪乃が照れたように笑うと、大雅の顔がやわらかくほころぶ。
その笑顔のまま、彼はそっと雪乃の頬に口づけた。ほんの軽く、羽が触れるようなキス。

「……」

雪乃は唇を尖らせ、上目遣いでじっと見上げる。

「ねえ、なんでいつも……ほっぺとか、おでことか、そういうとこばっかり?」

その声には、拗ねたような甘えと、ちょっとだけ勇気が混ざっていた。

大雅は、目を細めてふふっと笑う。

「ん? どこがよかった?」

わざと少し意地悪に、でも甘えるように問い返すと、雪乃は答えずにぽふっと胸元に顔をうずめた。

「……あー、ずるいなあ、もう。顔、見せて」

くすぐったそうに笑いながら、大雅はそっと雪乃の顎に指を添え、やさしくくいっと上を向かせる。
その仕草はまるで、壊れものを扱うように繊細だった。

雪乃の瞳が、大雅をまっすぐ見つめてくる。
少しうるんだその瞳に、大雅の心が、ぎゅっと締めつけられる。

「……可愛い。ずるいくらい、可愛い」

そう囁くように言って、彼はそっと唇を重ねた。
深くもなく、浅くもなく――ただ、やさしく包むように。

キスをしたまま、もう片方の手が雪乃の後頭部に添えられ、髪を撫でる。
唇を離すたびに、雪乃の表情がとろんと緩んでいくのがわかる。

「……もう、溶けちゃいそう」

「溶けていいよ。……全部、俺が受け止めるから」

そう言って、またひとつキスを落とす。今度はもう少し深く、愛おしさをまるごと込めて。
唇が重なるたびに、大雅の想いが体の奥まで染み込んでくるようだった。

「……私も、大雅……のこと、好き」

雪乃がぽつりと呟くようにそう言ったとき、大雅の瞳がわずかに揺れた。

「……名前で呼んでくれたね」

その声には、驚きとよろこびが滲んでいた。
大雅はそっと抱きしめる腕に力を込めて、もう一度――今度は深く、時間をかけて唇を重ねる。

ただ触れ合うだけじゃない。
そのキスには、愛しさも、感謝も、守りたいという願いも、ぜんぶが詰まっていた。

雪乃はゆっくり目を閉じて、大雅に全身を預ける。
心がふわふわして、何もかもが夢のようで、でも確かにあたたかかった。

(この人でよかった。この人じゃなきゃ、ダメだった)

そっと腕の中でささやくように微笑む雪乃を、大雅はさらに優しく抱きしめた。

「……雪乃ががんばった日は、俺がとことん甘やかすって決めてるんだよ?」

「……毎日、がんばるから……毎日、甘やかして」

「もちろん。逃げられないくらい、甘やかすから覚悟して」

ふたりの笑い声が重なって、ぴたりとまた唇が重なる。
愛しさとぬくもりが、静かに、でも確かに満ちていった。

その夜、部屋には甘くて柔らかな空気が、ずっとずっと漂っていた。