昼を少し過ぎた頃。
神崎はまだ医局のデスクに座っていたが、視線の先にあるカルテは、もはやただの「画面」と化していた。
内容が頭に入ってこないまま、ページをスクロールする手だけが空回りしている。

何度目かの溜息をついたそのとき――

「神崎先生」

不意に背後から呼びかけられた声に、神崎ははっとして振り返った。
立っていたのは、外科の研修医だった。白衣の袖を少し濡らしたまま、息を弾ませている。

「……終わりました。手術、無事に終了しました」

一瞬、言葉の意味を理解するまでに時差があった。
神崎の指がピクリと止まり、静かに、しかし確かに拳を握る。

「本当に……無事なんだな」

「はい。執刀医の先生から報告がありました。問題なく終わって、今は麻酔から覚醒中です。
滝川先生も病棟に戻られるとのことです」

「……ありがとう」

その言葉と同時に、神崎は立ち上がった。
肩の力がふっと抜けて、背筋が軽くなったような気がした。

心の中で張りつめていた糸が、音もなく緩む。
こみ上げてきたものをぐっと飲み込むように、唇を結ぶ。

(よかった……)

それだけで十分だった。彼女が、戻ってきてくれる。
手術室の扉を超えて、また笑ってくれる――その現実が、ようやく実感として胸に広がっていく。

神崎は一度深く息を吐き、軽く頷いて言った。

「目が覚めたら、すぐに会いに行く」

今度こそ、安心させる番だ。
そう思いながら、彼はそっと白衣を羽織り直し、医局を後にした。