退院してから数週間が過ぎた。
七月の陽射しは日に日に強くなり、蝉の声も聞こえはじめていた。

雪乃は、夜勤で不在のこともある大雅の働き方にも、少しずつ慣れていった。

静かな部屋に、彼の姿がない夜。
キッチンに一人で立ち、湯気の立つお茶を淹れながら、
「今ごろ、どこで何してるのかな」
と、思いを馳せることもあったけれど、
そのたびに、彼が命を救うために懸命に働いていることを思い出し、
胸の奥が温かくなった。

バイトにも徐々に復帰し、体調の波を見ながら無理のない範囲で働く日々。

お弁当屋のあたたかな空気に支えられながら、
ゆっくりと、けれど確実に日常が戻ってきていた。

だけど。
リビングのテーブルの上に置かれた、一冊のパンフレットだけは、
その「日常」の中に静かに重さを持って存在していた。

──「心臓の手術を受けられる皆様へ」
滝川先生から定期検診の際に渡された、病院のパンフレット。
表紙をなぞる指先が、ふと止まる。

ページをめくると、手術の概要、入院期間、合併症のリスク。
「全身麻酔」「胸骨正中切開」──
どの言葉も現実的で、冷静な口調で語られているのに、
読みながら心臓の奥がぎゅっと音を立てるように痛んだ。

怖い。
正直にそう思った。
けれど同時に、今を超えた先にある「未来」のために、
この手術が必要なのだということも、わかっていた。

その未来には、大雅の笑顔があってほしい。
自分の笑顔も、ちゃんと取り戻していたい。
そう思うたびに、雪乃は何度もパンフレットを開いて、
また閉じることを繰り返していた。

「ちゃんと、決めなきゃ」
誰に聞かせるでもない、小さな声が、部屋の静けさに溶けていった。