キッチンからは、味噌と出汁の混ざり合う、どこか懐かしい匂いが漂っていた。

雪乃はエプロンを締め、湯気の立つ鍋の蓋をそっと開ける。切り干し大根の炊いたのに、焼き魚、ほうれん草のおひたし。

胃にもやさしい、ほっとする献立。

そこへ、玄関の鍵がまわる音がして、神崎が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえりなさい、大雅さん」
雪乃は振り返って、少しだけ照れたように微笑んだ。

夕食をテーブルに並べ、ふたり並んで座ると、どこか家族のような静かなぬくもりが広がる。

箸を取りながら、雪乃がぽつりと切り出した。

「……今日、お店に電話して、辞めるって伝えました」

神崎は動きを止め、雪乃の方に目をやった。

「そうか」

「お酒の仕事は、もう無理だって言われたし……。でも、弁当屋さんには連絡しました。体調と相談しながら、また少しずつ働かせてもらうつもりです。あそこは、私を本当に心配してくれてて……帰る場所があるって、ありがたいですね」

「うん、よかったな」
神崎の声は、雪乃の選んだ道を尊重するように、静かに響いた。

「それで、あの家も引き払おうと思ってるんです」
雪乃は少し間を置いて、言葉を続ける。

「病院にも通いやすいし、自分で無理なく通える範囲で、新しい部屋を探そうと思って」

神崎は小さく眉を動かし、問いかける。

「わざわざ家、探すの?」

雪乃は苦笑して、箸を置いた。

「だって……先生に頼りきりってわけにはいかないでしょう? ちゃんと、自分のことは自分でやらないと」

神崎は少し口元を緩めて、食卓に置かれた味噌汁の湯気越しに、雪乃の横顔を見つめた。

「でもさ」
少しだけ声を低くして、優しい調子で続けた。

「こんなに広い家がさ。たいして家主も帰ってこないのに、ずっと空いてるって……もったいないと思わない?」

雪乃がふっと目を丸くする。

「……それ、遠回しな優しさですか?」

神崎は少し照れたように目を伏せ、そして笑った。

「いや、わりと直球かも。……ここ、ずっと住んでもいいよ」

「え……?」

「それに、別に“頼る”って悪いことじゃない。というか……俺、見張れないし」
言い終えると、冗談めかしたように微笑んだが、その瞳はどこまでもまっすぐだった。

雪乃の胸の奥に、ぽたりとあたたかいものが落ちて広がる。
誰かに“いていい”と言ってもらえることの、なんて優しい響きだろう。

彼女は少しうつむいて、食卓の湯気の向こうで、そっと笑った。