午前十時を少し過ぎたころ。
雪乃は、スマホを手に取り、迷いながらも懐かしい番号に指を滑らせた。

店の代表番号。――キャバクラの店。
今頃なら、ボーイの誰かが出勤している時間だ。

数回のコールののち、聞き慣れた声が電話の向こうから響いた。

「はい、クラブ・セレスです」

「……篠原さん、ナナ…雪乃です」

「――雪乃!? おい、生きてたかよ。連絡ないから心配してたんだぞ」

その声に、少しだけ胸が熱くなる。
雪乃はゆっくり息を吸ってから、言った。

「すみません……ご心配おかけしました。はい、でも……もう、続けられそうにないんです」

「……そうか。体、まだ悪いのか?」

「お酒を飲むような仕事は、もうダメって医者に言われてて……だから、退職させてもらおうと思って」

電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。

「……仕方ないな。でも、生きててよかったよ、本当」

「ありがとうございます。いろいろ、お世話になりました」

「体、大事にな。お前、意外と……真面目だったからさ。寂しくなるけど、元気でいろよ」

「はい……ありがとうございます」

電話を切ると、ぽろりとひと粒だけ、涙がこぼれた。
でもその涙は、寂しさよりも“区切り”の証だった。