夜はすっかり更けて、部屋の照明も心なしか柔らかさを増していた。
ソファに並んで座るふたりの間にあるのは、沈黙ではなく、心地のいい静けさだった。

神崎が、ふと視線を向ける。
そのまなざしはどこまでも優しくて、雪乃の頬をそっと見つめながら口を開いた。

「……もう、“先生”って呼ぶの、やめない?」

雪乃は驚いたように瞬きをした。
「え?」

「肩書きじゃなくて。俺はもう、医者としてだけじゃなくて――ちゃんと、雪乃の“ひとり”になりたいから」

静かに、けれど真っ直ぐに届く言葉だった。
雪乃は少し戸惑いながら、小さく唇を動かす。

「……大雅さん」

その響きを自分の口から発した瞬間、彼女は少しだけ頬を染めて、はにかんだように笑った。

「なんか……変な感じ。でも、嫌じゃない」

「俺も変な感じ。でも、嬉しいよ」

神崎の笑みも、どこか照れていて、けれどとても穏やかだった。
その笑顔に、雪乃の胸の奥がじんわりとあたたかくなる。

しばらく静かな時間が流れたあと、神崎はゆっくりと立ち上がると、やさしく声をかけた。

「先に、お風呂入ってきたら? 入院中はゆっくり浸かれなかったでしょ」

雪乃はふわりと笑い、「たしかに」と頷いた。

けれど、神崎はすかさず続ける。

「でも……長風呂は禁止。のぼせるからね。ちゃんとほどほどに」

「はーい」

雪乃はくすっと笑って立ち上がる。
神崎は彼女の背中にそっとブランケットをかけ直しながら、安心したように目を細めた。

「タオル、バスルームに置いてある。何か足りないものがあったら呼んで」

「うん……ありがとう、大雅さん」

名前を呼ぶその声は、少しぎこちなくて、けれど確かな距離の近づきを感じさせた。
神崎は「行ってらっしゃい」と優しく微笑み、見送った。

ドアが静かに閉まったあと――
彼はひとり、しばらくその場に佇んだ。
心にぽつりと落ちてきた幸福の重みに、胸の奥がじんと熱くなる。

名前で呼ばれるだけで、こんなにも嬉しいなんて。
そんなこと、思ってもみなかった。