ふと、頬にやわらかな気配を感じて雪乃は目を覚ました。
まぶたを開けると、カーテンの隙間から夕方の光が差し込んでいて、部屋の空気がほんのりオレンジに染まっている。

寝室の扉が少し開き、そこから神崎の穏やかな声が届いた。

「雪乃……一旦、起きられる? 水分とってほしいんだけど」

その声に雪乃は、静かに身を起こす。
さっきまであった疲れは、不思議と軽くなっていた。
体も心も、少しだけ芯の部分が温まっているようで。

「……うん、大丈夫。行くね」

リビングへと歩みを進めると、ふわりとやさしい香りが鼻先をくすぐった。
出汁の香り、ほんのり甘いタレの香ばしさ――どこか懐かしくなるような匂い。

キッチンに目を向けると、神崎がエプロンをつけて立っていた。
手際よく皿を並べているその姿が、なんだか妙に新鮮で、微笑ましくて。

「わ、いい匂い……」
思わず声に出すと、神崎が振り返り、少し照れたように笑った。

「おかえり。食欲ある? 薬、飲まなきゃいけないし、食べられるだけ食べて」

テーブルには、豆腐ハンバーグ、ほうれん草のおひたし、小さなお味噌汁、そして白米。
どれもやさしい色合いで、まるで雪乃の体調に合わせて考えてくれたような、そんなメニューだった。

「すごい……先生、こんなに作れるんだ」

「できるの、これくらい。でも病院で栄養士さんに教わったんだ。消化いいし、タンパク質も摂れるって」

雪乃は、自然と笑っていた。
その献立も、言葉の一つひとつも、全部があたたかい。

椅子に座ると、神崎がコップに水を注いで差し出してくれた。

「ありがとう。……なんか、こういうの、幸せだなって思う」

ぽつりとこぼした雪乃の言葉に、神崎は箸を持ちながら顔を少し横に向けて、目だけで笑った。

「俺も、同じこと思ってた」

その声がやけに真っ直ぐで、雪乃の胸にまた、ぽっと火が灯る。

夕暮れに包まれた部屋の中で、ふたりは静かに食卓を囲む。

言葉は少なめでも、あたたかな空気がすべてを物語っていた。
ここにあるのは、特別な時間じゃない。
けれど、誰よりも愛おしい――そんな、ささやかな幸せだった。