ランチを終えて、最低限の荷物をそろえた二人が部屋に戻る頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。

玄関を入ると、雪乃はふっと息を吐き、小さく目を伏せた。

無理もない――まだ体力が戻りきっていない中、人混みの中を歩いたのだ。
そのわずかな疲れの兆しを見逃すはずもなく、神崎は静かに声をかけた。

「ちょっと横になって」

そう言って寝室の扉を開ける。
白いシーツがぴんと張られたダブルサイズのベッドが、一筋の光を受けて、凛とした静けさを放っていた。

「お客さん用なんだけど……雪乃が第一号だね」

肩の力を抜くように、少しだけ笑ってみせる。
「眠らなくてもいい。横になって、身体を休めて」

雪乃は素直に従い、ベッドに身を横たえる。
神崎はソファから持ってきたブランケットを、そっと彼女に掛けた。

そのとき、雪乃が微笑む。

「先生、ちょっと心配しすぎじゃない?」

その声に、胸がふわりとあたたかくなる。
冗談めいていても、そこにあるのは確かな“信頼”だった。

「だって、すぐ無理するから」

言いながら、神崎はベッドの足元に腰を下ろす。
静かな部屋に、ふたりだけの時間が流れ始める。

視線は交わさないまま。
でも、沈黙はどこまでも穏やかで、優しかった。

やがて、雪乃がぽつりと口を開く。

「私ね……先生が優しくしてくれるのって、あの日、お店で病気に気づいたからだって思ってたの」

神崎は黙って耳を傾ける。

「だから、これは“医者としての責任”で、そのうち終わるんだろうなって――」
「期限付きの、やさしさなんだろうなって」

その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
だけど、彼女の次の言葉が、静かにそれを溶かしていく。

「でも……ちがった」

声は細いのに、芯があった。
まるで、自分の気持ちをひとつずつ確かめながら、言葉を紡いでいるようだった。

「最初から、ずっと、変わらないまなざしで私に向き合ってくれて……」
「先生って、“医者”である前に、“人”としてすごく尊敬できる人だって、そう思ったの」

神崎の視界が少しぼやける。
それを見せないよう、そっと視線を落とした。

「“助けたいと思ったから助ける”って言ってくれたとき――」
「本当にうれしかった」

「誰にも心配されなくて、存在意義さえ見えなくなってた私に……」
「先生はいつも、私が迷わないように、少し先を照らしてくれた」

その声が、胸の奥にしみていく。
やわらかく、あたたかく。

「ありがとう、だけじゃ足りないくらい……感謝してる」

言い終えると、雪乃は小さく息を吐いて、そっと笑った。

そして、ゆっくりと言った。

「だから……言ってもいい?」

神崎はその目を見つめ、ただ一言返した。

「うん」

その瞬間――雪乃の瞳が震えた。
迷いを超えた、まっすぐな想いがそこに宿っていた。

「……大好き」

それは、飾らない。
けれど、どこまでも真剣で、どこまでも透き通っていた。

彼女がどれほどの思いを経て、この言葉を口にしたのか。
それを想うと、胸の奥が熱くなる。

神崎は何も言わず、ただ静かに――雪乃の手を握り返した。
言葉よりも確かな気持ちを、そっと伝えるように。

その手の温もりに、雪乃は目を閉じた。
まるでその一瞬に、世界がやわらかく包まれたかのようだった。