過保護な医者に心ごと救われて 〜夜を彷徨った私の鼓動が、あなたで満ちていく〜

神崎はそっと浴室の扉を閉め、「一度、戻ろう」と雪乃に声をかけた。
リビングのソファに座らせようと、彼女の背に手を添える。だが——

雪乃はその場で固まった。
「……いや」と、か細く息を吐きながら首を振った。

視界の端に、あの日、怒鳴り声と共に近づいてきた父の姿が重なる。
——あのソファに押し倒されかけた。拒んでも、怒鳴られて、振り払った。

その場所には、今も触れたくなかった。

呼吸が急に荒くなった。
喉がひゅっと鳴り、酸素がうまく取り込めない。
神崎は一瞬でそれを察して、「外に出ようか」と囁いた。
彼女の肩を支え、玄関の扉を開けて外の空気へと導いた。

玄関先、夏の昼間。
湿った風が、ほんの少しだけ胸のつかえを和らげる。

雪乃は、自分でも驚くほど動揺していた。
心臓が痛いほど脈打ち、頭がぐらぐらする。

そんな彼女の背を、神崎がやさしく撫でた。
「深呼吸して。ゆっくりでいいよ」
そして、彼女の耳元で静かにささやいた。
「絶対、大丈夫だからね」

その言葉に、少しずつ呼吸が落ち着いていく。
酸素が、ようやく肺に届く感覚が戻ってきた。

神崎は、彼女の目をしっかりと見てから言った。
「どうする? 今日は……やめとく?」

雪乃は、ほんの少しだけ躊躇したあと、言葉を絞り出すように答えた。
「……やめたい」

神崎は、その言葉を受け止め、優しく頷いた。
「わかった。無理しなくていいんだよ」

手を繋いだまま、外階段に向かう。
だが、雪乃の足がそこでまた止まった。

「……ここ、私が落ちたとこ」

言葉と共に、あの日の映像が頭に蘇る。
重い音とともに背中に走った激痛。
冷たいコンクリートの感触。
遠のく意識——。

神崎は、彼女の手をしっかりと握り返した。
「今日は落ちないよ。ちゃんと俺が手、繋いでるから。安心して」

その一言が、張り詰めた心にじんわりと染み込んでいく。
でも、何日も経っているのに、記憶は色褪せなかった。
むしろ、鮮明すぎて、残酷だった。

慎重に一段ずつ下り、ようやく階段を下り切ったとき——
雪乃は大きく息をついた。
呼吸は異常に荒く、全身の力が抜けそうになる。

神崎はそんな雪乃をそっと抱えるように支えて言った。
「ゆっくり呼吸して。大丈夫だよ。……もう行こうか」

そして、静かに止まって待っていたタクシーの扉を開け、彼女を乗せた。
その手は最後まで、しっかりと繋がれていた。