ナースステーションの隅、まだ午前の回診が始まる前の静かな時間。
神崎がコーヒー片手にふと顔を見せると、遠藤はすぐに目を細めて笑った。

「……先生、最近よく来ますね。あの部屋」

「……患者の様子を見に来るのは医者の仕事ですから」

神崎はそう言いながら、どこか気まずそうに目線をそらす。
遠藤は小さく笑い、声を落とす。

「ええ、もちろん。でも――毎日こんな早い時間から来る先生は、そうそういませんよ」

神崎は言葉に詰まり、一瞬黙る。
紙コップを持つ指先が少しだけ動いた。

「……心配なんだ。まだ完全に安心できる状態じゃないから」

遠藤は、そんな彼の横顔を見つめながら、そっと微笑む。

「それだけじゃないと思いますけどね」

「……何が?」

「先生が、あの子のこと――ずいぶん大事にしてるってこと。ちゃんと伝わってます」

神崎はわずかに眉をひそめたが、否定はしなかった。

「……あの子、最初にこの病棟に来たときより、顔が穏やかになってきました。
先生が近くにいるからだと思いますよ」

一拍おいて、神崎は照れ隠しのように小さくため息をついた。

「……看護師の観察力って、ほんと侮れないな」

遠藤はくすっと笑い、カルテの山に手を伸ばす。

「伊達にここで長く働いてませんから。……ね、うまくいってるみたいですね?」

その言葉に、神崎はついにふっと微笑む。

「……どうだろうな。これから、かもしれない」

「じゃあ、ちゃんと”これから”を守ってください。患者さんの、だけじゃなくて」

遠藤の声は軽やかだったが、その奥には確かな信頼がこもっていた。

神崎は静かに頷いたあと、手にしたコーヒーを飲み干した。

「……ありがとう。じゃあ、そろそろ診に行ってきます」

「はい、お帰りなさい。――先生の場所ですもんね」

神崎は苦笑しながら病室へと向かっていった。
その背中を、遠藤は少しだけ誇らしげなまなざしで見送っていた。