過保護な医者に心ごと救われて 〜夜を彷徨った私の鼓動が、あなたで満ちていく〜

「大丈夫、大丈夫……」

自分に言い聞かせるように小さく呟きながら、雪乃は震える手でスマホの通話を切った。
病院には「特に問題はない」と伝えた。

いつも通りの声を作るのに、喉がひりつくほど力が要った。

けれど、泣いてしまえば、本当に壊れてしまいそうで――。

深く息を吸って、部屋の中に目を向ける。
ソファには父親が潰したクッション。

テーブルには乾ききった酒の染み。
台所には空き缶と、洗っていない食器が山積みになっていた。

ひとつひとつ、目に入るたびに息が詰まる。
でも、もう二度とこの空気を吸い込みたくなかった。

ごみ袋を広げ、脱ぎ捨てられたシャツや破れた靴下を詰め込んでいく。

積まれた食器の中に、ひとつだけ自分のお気に入りのカップがあった。

父が無造作に灰皿代わりにしていた。
震える手でそれを拾い、灰を丁寧に洗い流した。

「なんで……こんなものまで」

唇を噛み、涙が一粒、洗い終えたカップの中に落ちた。
慌てて袖で拭い、見なかったことにする。

涙に気を取られたら、きっと動けなくなるから。

缶ビールの残りをすべて開け、流しに捨てた。

冷たい泡が音を立ててシンクに流れていく様子に、不思議と少し心が軽くなる。

テーブルを拭き、掃除機をかけ、クッションを整えた。
いつも過ごしていた“私の部屋”が、少しずつ戻ってくる。

けれど、そこにはもう父親の痕跡は何も残っていなかった。

“ここにいた”という事実さえ消してしまいたかった。

換気のために開けていた窓から、ふわりと春の風が入ってきた。

カーテンがなびき、花の匂いと共に、街の音が遠くから聞こえてくる。

その風に、雪乃は目を閉じて身を任せた。

「……贅沢なことは言えないよね」

ぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。

「条件付きの優しさでもいい。一秒でも長く、あの人の隣にいられるなら……それでいい」

床に座り込み、ひざを抱える。

痛む脇腹に手を当てながら、胸の中で、ずっと名前を繰り返していた。

神崎先生――。

いつも、私が泣くと手を握ってくれた。
「大丈夫」って、私の代わりに言ってくれた。

私は、あの手が好きだった。
あの目が、声が、言葉が、全部――。

「惚れたんだと思う、私……先生に」

言葉にした瞬間、こみ上げるものがあった。
涙とは違う、決意のようなものだった。

ここで終わらせない。
もう二度と、誰にも支配されない。
私は、私の人生を生きる。

そう決めた瞬間、外の風がまた部屋に入り込んで、ほんの少しだけ笑顔が浮かんだ。