29歳のいばら姫~10年寝ていたら年下侯爵に甘く執着されて逃げられません

「シスター。今日のリハビリもお疲れさまです!」
「ああ~。やっぱりお風呂って最高……。生き返るわぁ……」

リハビリ後のお風呂タイムは、私にとって幸せそのものだ。浴船に肩まで浸かりながら、間延びした声を漏らしてくつろいでいた。

「今日のお湯、花びらが入っているのね。すごく良い香りがするわ」
白い小さな花弁が、湯面に浮かんでとても綺麗だ。私がうっとりしていると、アニスがにこにこしながら教えてくれた。

「今日はジャスミンのエッセンシャルオイルと花びらを散らしてみました」
「本当に素敵……! でも私、こんなに贅沢させてもらっちゃって、いいのかしら」
「「「もちろんですよ」」」

甘い香りに、心が華やぐ。

「シスター。最近、前より表情が明るくなったみたいですね」
「ええ。リハビリのおかげで喋れるようになったし、少しずつ体も動かせるようになってきたし、良いこと尽くめなんですもの。それにあなたたちがアドバイスしてくれたおかげで、ラファエル様とも自然に接することができるようになったわ。本当にありがとう」

そう言うと、彼女たちはなぜか目を輝かせて私を見つめ返してきた。とくにローゼル――銀髪で目元にほくろがある子だ――は、かなり前のめりの姿勢で私に問いかけてきた。

「で、どうですかシスター。ラファエル様とは、最近は」
「え? だから、前より自然に……」
「具体的にどうです? 『レイ』だった頃に比べて、かなり男前になったでしょう? シスターとしては、ああいう男性はどうですか」
「ど、どうしたのよ急に」

そういえばローゼルは子どものころから、恋バナが好きだったっけ……。遠い昔を懐かしく思いつつ、私は苦笑しながら首を振っていた。

「落ち着いて頂戴、ローゼル。ラファエル様は立派な紳士になられたけれど、私が彼を異性として見るなんて有り得ないわよ」

と言った瞬間、3人はいきなりガクリと肩を落とした。……何? なんなの、この子たちの反応は?

「……だって私、修道女よ? 色恋なんて、私の人生には無縁だもの」
「良いじゃないですか、そんな細かいことは!」

ローゼルの隣で、アニスも声を上げていた。
「でも、シスター! 毎日二人きりで一緒にいるんだもの、ちょっとくらいはラファエル様にキュンと来たりするんじゃないですか?」

キュンと来たこと……?
正直言うと、なかったとも言い切れない。触れられたり抱き上げられたり、見つめられたりするたびに心臓がぎゅっとなるのは、もしかすると『キュン』なのかもしれない。でも、そんなのは生理的反射というかなんというか、決して断じてときめいている訳ではないと思う。
というか、ときめいたら問題なのではないだろうか。

「……もう。アニスったら、冗談言わないの。私がラファエル様にキュンと来るなんて、絶対にありえないわよ」
私が力強くそう言うと、アニスとローゼルが同時にがたーん、と膝をついてうなだれてしまった。

「……ああぁ、じれったい。なんで2か月も2人きりなのに全く進展がない訳? ちょっとは男を見せなさいっての……」
「前途多難だよぅ。がんばれラファエル様ぁ」
ローゼルとアニスはそれぞれの口の中でごにょごにょ呟いていたけれど、私には聞き取れなかった。

落胆しているアニスとローゼルに、ミモザが謎の喝を入れる。
「くじけちゃダメよ、2人とも! ……それはそうと、じゃあシスターはどういう男性が好みなんですか?」
「え?」
「修道女は恋愛できないとか、そういう決まりごとはいったん置いておくとして。純粋に、好きな男性のタイプが知りたいです」

「うーん。でも私はあなた達とは違って若くないし、色恋なんて考える年齢じゃあ……」
と言った瞬間、3人同時にズザッと迫ってきた。

「何言ってるんですか、シスター! こんなに綺麗で若いのに!!」
「……え? 私、若くないわよ。だって、目覚めたら30代目前だったのよ? 実際、かなり老けたし」
「老けてません! 大人っぽくなっただけです」
「むしろ倒れる前より、シスターはもっと美人になりました!」
「シスターのは加齢じゃなくて、成熟って言うべきてす!」

(な、なんなの、この子たちの勢いは……?)

私はたじたじになりながら、浴室に立てかけられた姿見に目を馳せた。見た目は確かにまあ、20代半ばに見えなくもない。この子たちと一緒にいても、そこまでの年齢差には見えないのは確かだ。とはいえ……。

「……相変わらず優しいわね、あなたたちは。お世辞でも嬉しいわ」

「もう、お世辞なんかじゃないのに!」
「シスターったら、昔から自分に厳しすぎますよ」
「それに意外と頑固なんですから。そういうところ、変わりませんね……」

「今日のあなた達は、すごくよく喋るわね。なんだか、昔に戻ったみたいな気分よ」
懐かしい気分になって、私は笑みを浮かべていた。病人と侍女ではなく、修道女と孤児の関係性だった、遠いあの頃――。


「ミリュレー修道院が、懐かしいな……」
目を閉じて、私はそう呟いていた。まぶたの裏に、あの頃の光景がありありと蘇ってくる。本当に、幸せな思い出ばかりだ。

しっかり歩けるようになって、自立した暮らしができるようになったら、私はミリュレー修道院に戻ることになるはずだ。そうなれば、アルシュバーン侯爵邸のラファエル様やミモザ達とはお別れになる……考えると、少し寂しい。

「そういえば、ミリュレー修道院は今、どうなっているの?」
あの頃の子どもたちは、全員巣立っているはずだ。きっと、荘園領地内の村や町で立派に働いていることだろう。……それでは、マザー・グレンナは?

「ねえ。マザー・グレンナはお元気? もう70代だし、さすがに現役の修道院長ってことはないわよね? ああ、でも、あの人だったら何歳になっても好き放題やってそう……」
と、私は笑いながら3人をふり返った。

――3人の異変に気付いたのは、そのときだ。

「……皆?」

いつの間にか、ミモザ達の表情から明るい気配が消えていた。3人ともどこか気まずそうに、表情を硬くしている。まるで、これ以上何かを問われるのを恐れているかのような雰囲気だ。

そんな彼女たちの態度を見て、私は察してしまった。

(まさか――。マザー・グレンナが……?)

……考えられないことではない。
なんせ、10年だ。マザー・グレンナは生きていれば71歳。かなりの高齢である。どうして私はこれまで思い至らなかったのだろうか……マザー・グレンナが亡くなっていた可能性に。

彼女の死を強く想起した瞬間に、胸がズキズキと痛み始めた。

(…………マザー)

あの人なら、何歳まででも生きていてくれそうな気がしていた。でも、そんなのは幻想だ。生きとし生けるものは、等しく天に還る宿命(さだめ)にある。

――『病気なんざ知ったこっちゃないね! 体が動く限りはあくせく働きな! 人間、誰だっていつかはくたばるんだから』

ずっと私を支えてくれた、マザー・グレンナのその言葉。その言葉に、どれほど救われただろう。本当は、私は病気が怖かった。いばら病で死ぬのが、怖くて怖くてたまらなかった。でもマザーは、私を死の恐怖から引きずり上げてくれたのだ。

(でも。あの人はもう、いないのね……)

激しい動悸がして、息もできないほど胸が痛くなった。
「「「シスター!?」」」

どうやら私は、ひどく心を乱しているようだった。
体が熱くて、灼けつきそうだ。呼吸が乱れる……。浴槽にしがみつき、私は小刻みに震えていた。

「シスター・エルダ、しっかりしてください!」

(……落ち着きなさい、私。取り乱し過ぎよ、この子たちに心配をかけてはダメ)
私は、気力をふりしぼって笑みを浮かべた。

「……大丈夫よ。ごめんなさい。……ちょっと湯あたりしたみたい」
ミモザたちの手を借りて、私は湯船から出ようとした。でも、ダメだ。体に力が入らない。大きくふらついた瞬間に、肺の奥から不快なものがせり上がってきた。

「………………かはッ」
私は何かを吐き出した。

「「「きゃああああ――!!!」」」
3人が、悲鳴を上げた。

(……これ、あの花びらだ)
私が口から吐き出したのは、血の色をした花弁だった。これは、いばら病の……あの。

「……しっかり、しっかりしてください、シスター!」
「落ち着くのよ。まずはシスターをお湯から上げるの。それからラファエル様とドクター・ピーナに――」

皆の声が、遠くなってきた。視界がぐにゃりと歪んで、暗くなっていく。
ぷつりと糸切れたように、私は意識を手放していた。