キスしたら、彼の本音がうるさい。


大学の構内は、秋の空気に満ちていた。
金木犀の香りがふわりと漂い、銀杏の葉がさらさらと風に揺れている。
月菜は、バッグの肩紐をぎゅっと握りながら、文学部の棟から歩き出した。

昨夜のことが、どうしても頭から離れない。

あの、優しい声。
心の奥に直接届いた、甘いささやき。

──本当に、聞こえたんだよね……?

思い返すたび、胸の奥がそわそわと波立つ。
あれは夢じゃなかった。
でも、現実とも思いたくない。
だってそれは──知らなくてよかった“本音”だったのかもしれないから。

「月菜ー!」

背後からの声に、ビクリと肩が跳ねた。
玲奈だった。
すでにマフラーを巻いていて、手には温かそうな紙カップを持っている。

「なにびびってんの。……てか、顔赤くない?」
「そ、そうかな……? 寒いから、かも」
「ふーん? ま、体調崩すなよ」

玲奈はあまり詮索せず、隣を歩いてくれた。
それだけで少し安心する。けれど、どこかで神谷のことを話せたら──
なんて、ほんの一瞬だけ思ってしまった自分がいた。

「そうそう、次の講義、教室変わってるって」
「え?」
「経済学部棟の大教室。珍しく合同授業なんだって」

経済学部。

その単語に、心臓が跳ねた。

──まさか、いるのかな。
彼が。

歩きながら何度も深呼吸をして、気持ちを整えようとする。
大丈夫、大丈夫。
昨日の飲み会のことなんて、向こうは覚えてないかもしれない。
私のことなんて、顔すらちゃんと見ていないかもしれない。

でも、そう思ったのに──
講義室の扉を開けた瞬間、心が静かに波打った。

いた。

教室の一番後ろ、窓際の席。
神谷が、誰とも話さずに座っていた。
ノートパソコンを開いて、指先だけが淡々と動いている。
周囲には誰もいない。
瑛翔は、講義ではいつもひとりでいるタイプなのだと、その姿で初めて知った。

「うわ、やっぱり来てた」

玲奈は軽くつぶやき、別の席へと向かっていく。
月菜はその場に立ち尽くした。
視線の端に映る彼の姿を、正面から見る勇気はなかった。

……どうしよう。
でも、他に空いてる席は、ほとんどない。
気づいたときには、彼の隣に座っていた。
カバンをそっと下ろして、音を立てないようにプリントを出す。
神谷は、こちらを見ようともしない。
無表情のまま、画面をスクロールしている。

──大丈夫。
気づかれてない。
昨日のことなんて、覚えてない。
そう思いかけたとき。

「……昨日、酔ってたな」

月菜は、息をのんだ。
声をかけられるとは、思っていなかった。

「……えっと……うん……少しだけ」

声がうまく出なかった。
震えそうになるのを、ぎりぎりで堪えた。

「階段、危なかった」
「……うん、ごめんなさい」
「……別に、謝ることじゃない」

それだけだった。
ほんの短いやりとり。

でも、月菜の心臓は、どくんと音を立てて跳ねていた。
会話が終わり、また神谷は前を向いた。
パソコンに視線を戻し、無言で何かを入力し始める。

──やっぱり、すごく普通だ。
態度だけ見れば、昨日の出来事なんて“なかったこと”みたい。
でも。
私がプリントに視線を落とした瞬間

《うわ、近……やば……ちょっと、隣…緊張する……まつ毛長っっ》
《顔、見れねぇ。昨日から、何なんだ俺……こいつのこと、目で追ってばっか……》
《いい匂いがする…あんま考えんな、俺!講義だ!講義に集中しろ、俺!》

また聞こえてきた。

月菜は息を止めた。

聞こえてる。
やっぱり、今日も──神谷の“本音”が。

だけど、顔はやっぱり、無表情のままだった。
声も出さず、言葉もない。
彼の中でだけ、暴れている想いが、月菜の中へ静かに流れ込んでくる。

《喋った方がいいのか?……でも、何話すよ。プリントの内容?いや、それつまんねーだろ……》
《あー、もう……“可愛いですね”とか言えたら楽なんだけどな、俺……》

それを聞いた瞬間、思わず笑いそうになった。
声に出してしまいそうになって、唇を噛んで抑えた。

──かわいい……。
彼の“本音”は、いつだって素っ気ない表情と全然ちがう。
そのギャップが、信じられないくらい愛しくて、可笑しくて、そして嬉しかった。

「……えっと」

思わず声を出しそうになって、でもやめた。
彼は、こちらを見ていない。
聞こえてくるのは、彼の心の中の音だけ。

《何か言いかけた?……でも、俺が話したら逆に変か……?》

ああ、もう。
不器用すぎるその心の声が、どうしてこんなに温かいんだろう。
こんなふうに、誰かの本当の気持ちを聞けるなんて、思ってなかった。
戸惑ってるのに、顔は変えないで、心の中ではぐるぐるしてる彼の全部が、まるごと届いてしまって。

──もう、ずるいよ。
そんなの、嬉しくなっちゃうに決まってる。
月菜はそっと息を吐いて、プリント集中しようとした。

顔が、ぽっと熱くなる。
まだ“好き”かどうかなんて、わからない。

でも──こんな風に本音が聞こえてしまったら、
嫌いにはなれない。
今はただ、それだけが胸の奥で確かに鳴っていた。