◇神崎 慎◇
店を出て、タクシーの赤いテールランプが夜の街に溶けていくのを、しばらく黙って見送った。
風が冷たくて、頬がじわりと火照ってくる。
酔いが回っているのか、それともさっきまでの会話の余韻のせいなのか、自分でもよく分からなかった。
「……あんな泣き顔、似合わねぇっての」
ぽつりと独り言が漏れた。
月菜…いや、浅見は、自分が泣いてるってことは分かってたと思う。
でもたぶん、自分がどれだけ無防備な顔をしてたかまでは、わかってなかった。
あいつの涙は、何かがふっと緩んだときにしか、こぼれないタイプだ。
職場ではいつもキリッとしてて、俺がちょっと冗談を言ってもピクリともしないくらい堅物で。
けど今日は、少しだけ違ってた。
グラスを握る指先も、視線の置き方も、いつもよりゆるくて──
まるで、壊れかけたガラス細工みたいに、危うかった。
……もしあのまま、誰とも話さずにひとりで飲み続けてたら、あいつどうなってたんだろう。
そんなことを考えると、ゾッとした。
自宅までの帰り道、俺は珍しく遠回りした。
コンビニの明かりを横目に、ゆっくりと歩く。
途中、ジャケットのポケットに手を入れて、指先が柔らかな布に触れた。
ハンカチだ。あいつに渡したまま、てっきりそのままになってると思ってた。
「ちゃんと洗って返しますね」
そう言った浅見に、俺は「返さなくていい」って即答した。
あいつの手から受け取るのが、なんとなく惜しく感じたのかもしれない。
……でも、結局、自分で持って帰ってるって、どういうことだよ。
無意識に、ふと取り出していた。
四つ折りのハンカチを開くと、どこか湿ったような、でも落ち着く香りが鼻先にふわりと立ちのぼった。
──あいつの香りだ。
花の香りとも、石けんの香りとも違う。
でも、妙に懐かしい気がした。
たぶん、それはあいつがいつも身に纏ってるものなんだろう。
知らないうちに、香りごと記憶してた。
それが今、ハンカチを通してじんわりと甦ってくる。
──泣き顔なんて、見たくなかった。
本当に、そう思った。
あの涙は、誰かに見せるためのものじゃない。
誰にも気づかれずに、静かに消えていくはずだった。
でも、俺は気づいてしまった。
あいつの張り詰めた声も、ぎこちない笑い方も、すべてが「大丈夫じゃない」と語ってた。
部屋に戻って、ソファに体を沈める。
テレビも点けず、部屋の中は静まり返っていた。
テーブルの上にハンカチを置いたまま、しばらく動けずにいた。
何をしてあげるのが正解だったのか、いまだにわからない。
あいつにとって、俺はただの上司で、たまたま居合わせた“助け舟”みたいなもんだろう。
だけど、あんな顔見せられたら、もう放っとけない。
……いや。
放っとけなかったのは、最初からかもしれない。
スマホを手に取る。
LINEのトーク履歴を開いて、未送信のメッセージ欄を見つめた。
『ちゃんと帰れた?』
──それだけの一言すら、送れない。
送ってしまったら、何かが変わってしまいそうで、怖かった。
仕事中の距離感も、あいつとの関係も。
それが崩れるのが、今はまだ、なんとなく嫌だった。
そっと画面を閉じ、深く息を吐く。
香りが、まだ鼻先に残ってる気がする。
あの柔らかな匂いが、今夜だけは、心の奥に染み込んで離れなかった。
「──もうちょいだけ。そばにいても、いいか」
誰にともなく呟いた言葉は、静かな部屋に吸い込まれていった。
そしてもう一度だけ、思う。
──泣かせたくない。
……あんなふうに、もう二度と。
店を出て、タクシーの赤いテールランプが夜の街に溶けていくのを、しばらく黙って見送った。
風が冷たくて、頬がじわりと火照ってくる。
酔いが回っているのか、それともさっきまでの会話の余韻のせいなのか、自分でもよく分からなかった。
「……あんな泣き顔、似合わねぇっての」
ぽつりと独り言が漏れた。
月菜…いや、浅見は、自分が泣いてるってことは分かってたと思う。
でもたぶん、自分がどれだけ無防備な顔をしてたかまでは、わかってなかった。
あいつの涙は、何かがふっと緩んだときにしか、こぼれないタイプだ。
職場ではいつもキリッとしてて、俺がちょっと冗談を言ってもピクリともしないくらい堅物で。
けど今日は、少しだけ違ってた。
グラスを握る指先も、視線の置き方も、いつもよりゆるくて──
まるで、壊れかけたガラス細工みたいに、危うかった。
……もしあのまま、誰とも話さずにひとりで飲み続けてたら、あいつどうなってたんだろう。
そんなことを考えると、ゾッとした。
自宅までの帰り道、俺は珍しく遠回りした。
コンビニの明かりを横目に、ゆっくりと歩く。
途中、ジャケットのポケットに手を入れて、指先が柔らかな布に触れた。
ハンカチだ。あいつに渡したまま、てっきりそのままになってると思ってた。
「ちゃんと洗って返しますね」
そう言った浅見に、俺は「返さなくていい」って即答した。
あいつの手から受け取るのが、なんとなく惜しく感じたのかもしれない。
……でも、結局、自分で持って帰ってるって、どういうことだよ。
無意識に、ふと取り出していた。
四つ折りのハンカチを開くと、どこか湿ったような、でも落ち着く香りが鼻先にふわりと立ちのぼった。
──あいつの香りだ。
花の香りとも、石けんの香りとも違う。
でも、妙に懐かしい気がした。
たぶん、それはあいつがいつも身に纏ってるものなんだろう。
知らないうちに、香りごと記憶してた。
それが今、ハンカチを通してじんわりと甦ってくる。
──泣き顔なんて、見たくなかった。
本当に、そう思った。
あの涙は、誰かに見せるためのものじゃない。
誰にも気づかれずに、静かに消えていくはずだった。
でも、俺は気づいてしまった。
あいつの張り詰めた声も、ぎこちない笑い方も、すべてが「大丈夫じゃない」と語ってた。
部屋に戻って、ソファに体を沈める。
テレビも点けず、部屋の中は静まり返っていた。
テーブルの上にハンカチを置いたまま、しばらく動けずにいた。
何をしてあげるのが正解だったのか、いまだにわからない。
あいつにとって、俺はただの上司で、たまたま居合わせた“助け舟”みたいなもんだろう。
だけど、あんな顔見せられたら、もう放っとけない。
……いや。
放っとけなかったのは、最初からかもしれない。
スマホを手に取る。
LINEのトーク履歴を開いて、未送信のメッセージ欄を見つめた。
『ちゃんと帰れた?』
──それだけの一言すら、送れない。
送ってしまったら、何かが変わってしまいそうで、怖かった。
仕事中の距離感も、あいつとの関係も。
それが崩れるのが、今はまだ、なんとなく嫌だった。
そっと画面を閉じ、深く息を吐く。
香りが、まだ鼻先に残ってる気がする。
あの柔らかな匂いが、今夜だけは、心の奥に染み込んで離れなかった。
「──もうちょいだけ。そばにいても、いいか」
誰にともなく呟いた言葉は、静かな部屋に吸い込まれていった。
そしてもう一度だけ、思う。
──泣かせたくない。
……あんなふうに、もう二度と。
