キスしたら、彼の本音がうるさい。

◇ ◇ ◇

グラスの中で、氷がカランと鳴った。
月菜は静かにその音を聞きながら、梅酒をひと口、口に含んだ。
じんわりと芯に沁みていく。

ひとりで飲みに来るなんて、今までなら考えられなかった。
でも、今日くらいは、そうしてもいい気がした。

照明が落ち着いた色で灯る、小さな居酒屋のカウンター席。
周囲は会社帰りのスーツ姿のグループが多く、ひとりでいる女性は珍しかったかもしれない。

「……やってられない」

誰に向けたでもないその言葉が、ぽつりと口をついて出た。
グラスを置き、視線を落とす。

記憶にこびりついたあの顔が、また浮かぶ。
“神谷 瑛翔”という名の、わたしを知らない彼。

どうして、あんなに穏やかに笑えたんだろう。
どうして、なにも覚えていない顔で、あんなに優しく接してこれるんだろう。

──ずるいよ。

わたしだけが、こんなに苦しくて。
わたしだけが、時間に取り残されたままで。

梅酒のグラスが空になったころ、ふいに背後から聞き慣れた声がした。

「……なんだ、浅見。そんなとこで潰れてんのは、らしくねぇな」

振り向くと、そこに立っていたのは神崎だった。
スーツの上着を脱ぎ、袖を軽くまくり上げたラフなスタイル。
仕事のときとは違って、どこか力の抜けた雰囲気で──それが、かえって妙に自然だった。

「え……どうして……」
「店、俺の行きつけ。……ていうか、何でひとりで飲んでんだよ」
「今日は……飲みたかったんです。何も考えられないくらいに…」

神崎が店員にビールとつまみを頼むと、手元に置かれた水のグラスを彼が寄越してきた。

「ほら、水。あんた、弱いくせに顔に出るタイプだろ」
「……“あんた”? 神崎さん、なんか話し方、いつもと違いますね」
「今、仕事中じゃねーだろ。俺だって、ずっと“浅見さん、浅見さん”ってやってると息詰まんだよ」
「え、それ言われた私の立場……」
「だから、今日は“浅見”でいいだろ。酔ってるし、俺も飲むし、対等ってことで」

「……そういうとこ、ずるいですよね。ちゃんと距離を詰めてくるくせに、誤魔化すの上手くて」
「……いや、本気で誤魔化してるつもりはねぇんだけどな」
「……ふふっ。ほんと、神崎さんって、不器用ですよね」
「お前ほどじゃねーと思うけどな」

神崎との気軽なやりとりに、張り詰めていた何かが緩むと同時に、ずっと我慢していた涙が溢れてくる。
目元をガシガシと雑に擦りながら、精一杯泣き笑いを浮かべながら言う。

「……泣いてると、お酒って、あんまり美味しくないんですね」
「そりゃそうだろ。味覚って、気分で変わるからな。泣きながら飲む酒が美味いわけねぇ」

そういうと目元を擦っていた手を掴まれ、かわりにハンカチを押し付けられた。

「……神崎さん、なんか、やっぱり今日イケメンですよね」
「なんだそりゃ、今さらかよ」
「え、今さらって……自覚あるんですか?」
「少しくらいはな。でも、今言ったの、お前が初めてだ」
「……ほんと、ずるい」

どうしようもなく壊れてしまいそうな夜に、やっと息をすることができた気がした。