キスしたら、彼の本音がうるさい。

◇ ◇ ◇

帰宅途中、駅の階段を降りる途中。
人の波のなか、ふと視界の端に、ひとりの女性の後ろ姿が入った。

ミルクティーブラウンの髪。
ふわりと揺れるロングコート。

手に持ったスマホを見ながら歩くその姿に、なぜか目が離せなかった。

──誰かに、似ている?

そんな気がした。
けれど、その“誰か”が誰なのかがわからない。

階段を降りきる頃には、彼女はもう雑踏の中に紛れていた。
改札を抜けながら、上着のポケットに手を入れ、無意識に名刺入れを取り出す。

昨晩、鞄の中に突っ込んだままだった名刺がそこにあった。

《浅見 月菜》

その名前を、何度目かになるのに、また見つめてしまう。

知らないはずの名前。

けれど、見るたびに、どこか胸がざわつく。
昨日、打ち合わせで会った女性。
物腰が柔らかくて、声が落ち着いていて、それでいてどこか
──懐かしいとすら思えた。

記憶には、何もない。

でも、彼女の香りが脳裏に焼きついていた。

甘さのなかに、ほんの少しだけ柑橘のような鋭さが混じった、印象的な香り。
……いつも自分が持ち歩いているミニボトルの香水の香り。

夜、ベッドに横になっても、なかなか眠れなかった。

目を閉じると、街中で見かけた後ろ姿と、あの名刺が交互に浮かんでくる。
そして──なぜか名前を呼ぶ声が、頭の奥でかすかに響く。

(──月菜)

誰の声なのか、わからない。
けれどその響きだけが、やけに心に残った。